マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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ちょこっと解説
イエスは「霊(マタイ4:1)」に導かれて荒野で荒野の誘惑を受けられます。
この霊とは、洗礼の際にイエスに降った「神の霊」であるはずです。つまり神様ご自身がイエスを荒野へと向かわせていくのです。
これは、キリスト者(クリスチャン)になった者が初めに受けるものでもあります。
信仰が与えられたばかりの、若々しく熱く燃えているときには、自分の罪をことさら深く受け止め自責に苛まれたり、現実と信仰との在り方の折り合い、自分の欲望との狭間で自らの「不信仰」に悩んだりすることがあるからです。
イエスはそのような悪魔の誘惑を、どのように退けられたのでしょうか。
それは、正しく理解した聖書の言葉(特に旧約聖書の律法・申命記からの引用が多い)によってでした。
悪魔の誘惑を読み解くと、ときには聖書の言葉を通して私たちを誘惑することさえあることがわかります(マタイ4:6)。
これは、自分勝手に自分に都合よく聖書の言葉を受け取ることへの戒めでもあります。
しかしそれでもイエスは聖書の言葉に常に立っていきました。
それは、自分の意見の支えとするではなく、むしろ聖書の言葉こそ柱とし、それにより頼む、ということをするのです。
自らの思いの中心、判断の基準を聖書の言葉に置くことこそ最も大事なことであり、自分が揺さぶられないようにしっかりと立つ土台としての「岩(マタイ7:25)」、身を寄せる「砦(詩18:3)」こそ、み言葉であるということの教えが、イエスの姿から見て取れるでしょう。
イエスは弟子を取られます。初めての弟子は漁師たちでした。
当時、水には悪魔が住むと考えられていましたから、魚を取る漁師たちは、その水に触れ、水に近い仕事をしていたために、汚れや差別の対象として見られることもあったようです。
そのような人々に関わること自体が神様に反すること、と思われていた中で、イエスはいの一番に彼らを弟子として、つまり神様の福音を伝える相手であり、またそれを他の人々に伝える役割を担う宣教者として選ばれたのです。
そして、彼らに「人間をとる漁師にしよう」と呼びかけていかれました。
彼らの与えられていた賜物を、宣教者になってなお十分に用いるために、イエスはこのように言い、彼らの助けを求められたのです。
頼られることは誰にとっても嬉しいことですが、神様に見捨てられたと思っていた自分たちが、神様によって必要とされることの幸いがどれほど大きかったかを思わされます。
イエスは「光」、特に「陰の地」に差し込む光であると旧約聖書の預言は語ります(イザヤ9:1)。
私たちの心の暗いところには何があるのでしょうか。そこには罪があります。弱さがあるのです。
しかしイエスは罪を明るみに出して悔い改めさせ、誰にも見せられないような弱さに触れて温めてくださる慈愛に満ちた言葉として、私たちのもとに来られた救い主(メシア)であると言うことが、イエスの公生涯の始まりにまず示されているのです。
まさにイエスの働きが福音の告知といやし(マタイ4:23)によってまとめられていることと響き合っています。