マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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ちょこっと解説

洗礼者ヨハネの死がイエスに伝えられます。
ここでヘロデの言う「イエスはヨハネの生き返り」ということは全く的外れな想像にすぎませんが、この物語は、当時の人々の死生観を現わしている記事とも取れます。
つまり、死者の復活がありうると考える人々がいたということ、そしてその復活が奇跡的な力──神様の介入を伴うものとして解されていた、ということです。

ここでイエスは二つの奇跡を弟子たちの目の前で起こされます。
五つのパンと二匹の魚だけで五千人以上もの人々を満腹させた、という奇跡と、湖で逆風に漕ぎ悩む弟子たちの舟に向かって水の上を歩いて来られた、という奇跡です。

五つのパンと二匹の魚でそれだけの人数が満腹したということは、物理的にパンと魚を増やす奇跡が起きたのか、という視点は、あまり重要ではありません。
聖書はそのような再現性や整合性をチェックするような類の書物ではないからです。
ここでイエスは「天を仰いで賛美の祈りを唱え」られ、そのパンを裂いたあとは「弟子たち」がパンを群衆たちに配ったということが注目すべきポイントです。
神様への感謝によってその奇跡が起こったということは、ここでイエスは神から恵みを受ける信仰者としての立場に立たれています。

そしてイエスから与えられたパンと魚が、普通の人間である弟子たちの手を通して人々と分かち合われたことによって、信じられないほど多くの人々を「満腹」させたのです。
この「満腹」と訳されている言葉は、「満たされる」という意味の言葉であるため、物理的に満腹したというだけではなく、もっと象徴的に、心が満たされるとも取れる言葉が使われています。
感謝の心をもって私たちが誰かと一つのものを分け合う時、それは一人で受けるよりもずっと心が満たされることが表されています。

空腹である時、私たちはついつい余裕をなくし、自分勝手な振る舞いをしたり、機嫌が悪くなったりするかもしれません。
ここでの群衆たちはそのような身体的な飢えを感じながらも、それでもイエスの言葉に聞きたい、心を満たしたいという欲求の方が強く、イエスのもとに留まっていました。
だからこそ、そのような人々に対してイエスは「深く憐れみ」をもって接したのです。
この「深い憐れみ」と訳されているギリシャ語は元々「はらわたがねじれるような痛みスプラングニゾマイ」を意味する言葉が使われていますから、それほどイエスが人々への深い共感と飢えの痛みをその身に感じてくださった、ということが表されています。
自分で自分をコントロールできなくなるような余裕のない私たちの心と体の飢えに対して、イエスだけは深くそこに寄り添われます。
そのみ言葉だけでなく、食卓さえも共にして、相手のすべてを一緒に満たそうとする信仰者としての模範を、ここでイエスは示されているのです。

そして湖の上を歩くイエスの姿には、イエス自身が神様ご自身であることが表されています。
古代において水の上を歩くという行為は、神様にしかできない行為と考えられていたからです。
弟子たちの船が逆風と荒波に悩まされている様は、人間の力ではどうしようもできない不条理、私たちの現実に起こる様々な困難のたとえとして受け取ることができます。
そこに神様が助けようとしてやってきたとしても、弟子たちがそうであったように、疑心暗鬼と不安の中にあると、その助け手さえも自分を脅かす「幽霊(26節)」に見間違えてしまうのです。

しかし、そこにイエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と呼びかけてくださいます。
そして、この世の荒波の中にある私たちがそのイエスだけを見つめて生きようとする時、人の常識ではありえない「水の上を歩く」ような一歩へと踏み出すことができるようになるのです。
それは、その前に起きた五千人以上もの人々を満たした奇跡のように、私たちが誰かへの深い共感と分かち合いによってもたらされる奇跡──共に生きる隣人を癒し、慰め、支え、満たすような、そんな深い愛と憐れみに満ちた関わりをもたらす一歩であるのです。

私たちが奇跡を起こされるのではありません。私たちを見つめ続け、その奇跡の器として用いてくださる神様がおられるのです。
イエスのことを見つめていても、すぐに周りの状況(強い風)に気を取られてしまう私たちを、何度でも「手を伸ばして捕まえ」てくださる、そして引き上げてくださる神様がおられることに、私たちの信頼と安心を委ねたいものです。