マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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ちょこっと解説
イエスが山の上で白い衣をまとう姿に変わったという「主の変容」と呼ばれる出来事こそ、イエスの地上の生涯におけるターニングポイントにあたる出来事です。
モーセとエリヤの二人が現れ、イエスと語り合っていたと記されていますが、このモーセとエリヤは旧約聖書における律法と預言の象徴的な存在として登場しています。
彼らがイエスと何を語り合っていたかについてはルカ福音書で「エルサレムで遂げようとしておられる最期について(ルカ9・31)」と追記されています。
イエスの地上の生涯の最期について旧約聖書を代表する二人と話し合うということ、そして神ご自身の現臨を表す「光り輝く雲(5節)」が「これ(イエス)に聞け」と語られたのちには、二人は消えてイエスのみが残っていた、ということから、旧約聖書から続く神様のご計画としてイエスの十字架は起こる、ということの暗示がここでなされているのです。
この出来事を見た弟子たちに「人の子(イエス)が死者の中から復活するまで……(9節)」と語られているように、この白い衣を着たイエスは十字架の死の後にイエスが復活することを表していたのです。
しかしこの時点では、弟子たちが十字架の意味を捉えきれていません。
ペトロも必死に応じようと「仮小屋を三つ建てましょう(4節)」という的はずれなことを言っています。
ペトロは旧約聖書の儀式の間に神様が宿られる場所を作るという旧約聖書の伝統に沿って言ったのですが、なんとかしてこの奇跡的な出来事、しかも旧約の伝説的な人物が一同に介しているこの状況を、この場に留めようとしたのかもしれません。
弟子たちは派遣の際(10章)、イエスから悪霊を追い出し、病を癒やす力を委ねられていました。
しかしここで弟子たちが癒せない患者が登場します。
「からし種」というのは当時最も小さいと考えられていた植物の種の一つです。
弟子たちの信仰をそのようなものにたとえられたイエスの言葉からもわかるとおり、これは弟子たちの無理解、不信仰を強調するシーンとしてここに置かれています。
ここでイエスは信仰とは何かを言おうとしています。
つまり、ペトロがイエスを諌めたり、仮小屋を建てようとする振る舞いに表されているように、立派な信仰とは神様のことを人間がすべて理解するということではありません。
人間には理解できない神様の計画に自らを委ね、常に尋ね求めることが信仰であるのです。
「信仰があれば山をも動かせる」という奇跡の力を得るために信仰があるのではなく、あくまで神様がなさろうとしているみ心に自分を一致させていく、そのために神様は何をなさろうとしているのかを捉え続けていこうとする歩みこそが、真の信仰であるとイエスはここで弟子たちに教えようとしているのです。
このような不信仰を表す弟子たちに、イエスは神殿税についての話を通して実は天の国における神様と人との関わりを教えています。
イエスを信じている弟子たちはすでに、イエスとの関わりを通して神の子、神の家族の一員として招き入れられていることを、王とその子どもの関係性の中で言おうとしています。
しかし同時に、「彼ら(イエスを信じていない/神の家族の一員というアイデンティティを理解しない人々)をつまずかせないように(27節)」と言われている通り、イエスはその教えによって、この世の仕組みに無理に反抗することは望まれません。
10章でも語られたとおり、イエスが目指す神の計画の最終目的は「平和」であり、そのために必要な一時的な「敵対」は起こりうるものであったとしても、キリスト教は自らその争いを引き起こし、教えを望まないものにも強制をするような教えではないことがイエスの言葉には表されているのです。