マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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ちょこっと解説
イエスが十字架の予告と山の上での不可思議な変容を見た弟子たちが、段々とイエスに対する心の距離が生まれてきているのがわかります。
それは、「イエスにさえついて行けば良い」という状態から、保身に走る姿として表されてくるからです。
「天の国で一番偉い者は誰か」という議論は、弟子たちがイエスに付き従ったことへのリターンを求める心から来ています。
これは20章にも繰り返される議論(マタイ20・20〜)ですが、信仰とは、神に従うという対価を差し出す代わりに神から報酬を引き出すような取引ではありません。
だからこそイエスはここで、子どもにとって親の愛は無条件に与えられるもの、と捉えている子どもを立たせ、「自分を低くして、この子供のようになる人が……(4節)」と言うのです。
親が与える以上の愛は欲しがらず、ただ与えられたものをそのままに受け取っていく、子どもの素直さと謙虚さに立ち返るようにと弟子たちを戒めるのです。
また、そのような謙虚さを忘れた者は、その振る舞いによって周りの人々さえ罪に陥らせてしまうことがある、ということにも気をつけるように勧められています。
それは、神様にとってはすべての人々の一人ひとりが「百匹の羊のうち迷い出た一匹」であるからです。
神様はわたしという一人を大事にしてくださる、は意識しやすくとも、私の目の前にいる人も神様に大事にされているのだ、という意識をついつい忘れてしまう罪を私たちは持っています。
「迷いでた一匹の羊が、残された九十九匹よりも価値ある羊であったのか」とか、「自分が九十九匹のほうの一人であったのなら、羊飼いを失った九十九匹は狼に食べられてもよいのか」とか、そのように隣人と自分を比較し、神の前にどちらが上か下かと決めようとするその心が、既に罪であることを思わされます。
だからこそ、互いに神様に愛され赦されている存在であればこそ、過ちを犯している隣人に対しては、「二人だけのところで」という恥への配慮の上、戒めなさいと勧められます。
これは叱ると怒るの違いを意識すべきことでしょう。悪であればところ構わず批判し論破するべき、ということではなく、あくまで愛をもって、相手への配慮と尊重の上で、段階を踏んで忠告をする、ということなのです。
あくまでその人が過ちを悔い改め、神さまの前に喜ばれる救いを得るために、イエスは謙虚さとすべての人に等しい神様の愛の重要性を説いた上で、天の国(神さまのみ心に適った)人との関わりについて教えているのです。
罪の現れの一つとして、怒りがあります。
ペトロは必死にイエスの教えにおける隣人へのゆるしを実践しようとしていますが、「何回赦すべきでしょうか。七回までですか(21節)」と言っている時点で、「八回目は怒る」ということですから、ゆるしていないのです。
ゆるすという言葉は、「忘れる」「思い出さない」という意味も持つギリシャ語が使われています。しかし、怒りが大きければ大きいほど、その根源にある出来事の痛みは深いものですから、なかなかゆるすということは難しいことでしょう。
そのようなとき、イエスはここで、一生かかっても払いきれない借金を帳消しにしてもらった家来にたとえ、あなたはこれまでどれだけ神様にゆるされてきたのかということに目を向けるようにと勧めます。
怒りは六秒間しか保たれない感情である、と言われますが、私たちはこれまでの人生のすべての時間、どれだけ神様の心をないがしろにして生きてきたのでしょうか。
聖書の教えに「私にはできない」と感じるとき、私たちはそれだけ罪深いのです。
人のいのちを与えるのも取るのも自由にできる神様が、それでも自分勝手で罪深い私たちを罰せず、いのちを奪い取らず、生かし続けてくださっている。その憐れみと愛に目を向けるとき、私たちも少しずつ、ゆるしの心を学ばされるのではないでしょうか。