マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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ちょこっと解説

イエスとファリサイ派の人々の間で、「夫が妻を離縁する(3節)」ことについての律法が話題に上がっています。
以前から彼らはイエスを「試そう(3節)」として律法についての投げかけをしていますが、これは複数の答えができる問いかけであり、どう答えても相手を非難できる罠として問いかけられているものです。
これまでは全く別の視点を持ち込むことでこの罠を回避してきたイエスでしたが、今回の場合にはイエスの返答を考えた上で彼らは問いかけをしています。
イエスが「離縁することは律法に適っている」と答えれば、イエスが説いた箇所を引用して責めることができます。逆にイエスが言ったように、「適っていない」という趣旨のことを言えば、旧約聖書の律法を神から授かった伝説の人物モーセを蔑ろにすることになります。それは代々ユダヤ人たちが守ってきた信仰の否定になりますから、異端者としてユダヤの共同体から排除する理由にできるのです。

このようなことが議論の対象になる背景として、当時の夫婦関係において夫は人権を持ち、妻と子どもは「夫の所有物」に数えられていました。
これは、女性が一人で生計を立てることのできない社会システム上、男性の庇護下に置くことでその生活といのちの尊厳を保つためでした。
しかし逆にこの立場が女性や子どもの立場を男性よりも下に位置づけ、本来離婚の理由にもならないような自分勝手な理由で離縁状を提出することで、一方的に妻を切り捨てることが横行していたのです。

本来結婚が人と人とが決めた物事ではなく「神様が結び合わせてくださったもの」として起こっているものだとイエスは説いています。
それは、アダムに対等な存在としてエバが神によって創造され夫婦とされていったように、妻である女性が便宜上財産として数えられていても、夫の自由に扱えるモノ扱いすることを神様は望まれない、という視点からイエスは語っていったのです。
男尊女卑の文化の中で、男女平等の萌芽が既にここに示されていることは驚くべきことですが、このような解釈ゆえに、女性と同じ立場に置かれていた子どもにも祝福し、イエスという「大先生の権威」を理由に関わりを妨げないようにと弟子たちに命じるのです。

イエスはたくさんの財産を持ち、律法を文字通りに守ってきた青年との対話の中で、「財産を手放し、貧しい人々に施す」ことを勧めています。
当時、財産をたくさん手に入れることは、神様に正しい人に対する神様からの祝福だと考えられていました。つまり、彼が主張しているとおりに掟(律法)を守ってきたことの報酬として財産が与えられている、という捉え方が一般的だったのです。
だからこそその財産を手放すことが神のみ心に最も適ったことである、というイエスの答えに、青年は悲しみながら立ち去り(22節)、弟子たちは「誰が救われるのか」と驚いているのです(25節)。

ここで再び語られるテーマとして、誤った信仰のあり方として、神様と取引しようとするペトロの姿が描かれます。
「従ってきた」報酬として「救い」が与えられる──このような取引の考え方で信仰を捉えようとすると、いつしか人は逆に捉えてしまうようになるのです。つまり、神から救いを引き出すためにその行為をする、その行為さえすれば救われる、という変容が起きるのです。
これが、16世紀にカトリック教会がその信仰を見失い、宗教改革者マルティン・ルターによって聖書に立ち返ることになった人の弱さでもあります。
あくまで信仰とは、神様を人間の側から動かし救いを引き出す手段ではなく、神様から与えられているすべてのものを人が感謝して受け取るための「器」であるからです。

イエスがペトロのその的はずれな捉え方に配慮し、「イスラエルの中に部族を収めることになる(28節)」と言ってくださっているのは、彼が十字架において一度その信仰に挫折し、本当の信仰に立つことができたあとに実現する話です。
それはこの世の権威を振りかざして利己的な暴力を振るうような立場ではなく、むしろ謙虚に「仕える(マタイ20・26,28)」者であるのです。
だからこそ、天の国においては後に救われた者(弟子たちよりも後にイエスに出会い信仰者となった者)を喜び迎えるために「先にいる多くの者(最も早くイエスに出会い信仰を与えられた弟子たち)が後になる」ことを喜んで受け入れるような信仰を、イエスは弟子たちに説いているのです。