マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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ちょこっと解説
ファリサイ派の人々がイエスを捕まえようと憤りに満ち満ちている中で、イエスは婚宴のたとえをもって、彼らが自ら神様からの救いの招きを断った、という話をしていきます。
ファリサイ派の人々は律法の専門家ですから、誰よりも深く聖書を理解し、それゆえ誰よりも神様の御心を理解している人々のはずでした。
そして彼ら自身は確かにそのような自負をもって、生きていたのです。
しかし、実際に彼らがやっていたのは、神様が律法を通してユダヤの人々に求めた関係性──天の国における関係性とは懸け離れたものだったのです。
それは神様が彼らをそのように遠ざけたのではなく、むしろ彼らを天の国の救い(特に神と人との良き関係性)へと一番に迎え入れようと、神様のほうが期待していた人々であったはずだったと、イエスは彼らに神様の思いを伝えようとされるのです。
まさに神様から遣わされた使いの者、それがイエスであるにも関わらず、その言葉を受け取るどころか自分のことを優先する──自らの権力と地位の保持のために、神様の言葉と思いの優先順位を池に落としたのでした。
だからこそ神様は、「見かけた者はだれでも(9節)」招こうとされます。
ここでの悪い者と言われているのは、律法を違反しているとファリサイ派の人々に言われていた徴税人や罪人たち、そして律法を知らない異邦人たちを指しているのでしょう。
品行方正でもなく、神様が望まれている生き方から今は離れているような人々でさえ、神様(イエス)の招きに応じるなら誰でも歓迎するのです。
その人のこれまでの悪を全てなかったかのように捉えてくださり、親しい間柄にしか開かれていない関係性を持つ相手として迎えてくださる、という救いを与えられるのです。
そのなかで「礼服を着ていない者」について触れられています。
当時の婚礼の宴会では、そこで着る服はホストの側が用意をするのが一般的でした。
つまりこの者は、その場にいるために神様から差し出された関係性とその思いを拒みながら、ただ自分が楽しむためだけに、神から一方的に利益を搾取する傲慢な者であった、ということです。
人間関係において、どちらかが与え、どちらかが受け続ける関係性は歪んでいます。
神様が私たちに求めることはただ一つ、イエスが示されたように、神様が愛ある方であることを信じ、それを受け止めて悔い改めるということです。
神様は私たちがこれ以上誰かから一方的に奪われたり、奪ったりするような罪を重ねるために、救いの大盤振る舞いをしたのではありません。
自ら悔い改めてすべての人との関係性を良く保つ生き方──天の国の関係性へと少しでも近づけるように、先んじてその救いと恵みの喜びを約束として私たちに示してくださっているのです。
律法学者にはファリサイ派の他に、サドカイ派やヘロデ派という人々もいました。
サドカイ派は主に貴族たちが多く、聖書の律法(創世記〜申命記までの5冊)は重要視しますが、預言(イザヤ書、エレミヤ書など)は軽視していた人々です。
旧約聖書における死者の復活信仰はこの預言に書かれた出来事であるため、彼らは「もし復活があるならおかしなことになるだろうシチュエーション」である「7人と結婚した女性」の例を出しているのです。
イエスはここで、復活とは「天使のようになる」と表現しています。
これは個人が個人でなくなる、ということではありません。
この世のあらゆる関係性は、しがらみとセットです。神さまのみ心に完全に従う御使いである天使として生きることになれば、そのようなしがらみ自体が起こることはありません。このような回答は実は「天の国のたとえ」のひとつでもあるため、ここに置かれているのです。
また、ユダヤ人たちは自らの神が他宗教の神ではないことを表すために「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と旧約聖書の神様のことを呼んでいました。
このアブラハム、イサク、ヤコブはユダヤ人の歴史が始まった最初の親子三代に当たる人物です。それゆえ、その子孫であるということ自体が、ユダヤ人にとってのアイデンティティでありました。
彼らは何千年も前に天に召されているわけですが、それでもこのように呼ばれているという意味をイエスは深堀りし、この世において死者だと思われていても、いのちの与え主である神様にとっては、いつでもすべての人を生かすことができるお方であるということ、ユダヤ人の父祖である彼らがそうなのだから、ユダヤ人である私たちも当然そうである、と説いたのでした。
イエスはここで律法の中で最も重要な掟について問われます。
最も重要な掟、と言われると一つだけを選びたくなるものですが、どれか一つを選ぶということは、その掟に含まれていない内容の掟は重要ではない、軽視している、という揚げ足取りが可能です。
そのため律法の専門家は「イエスを試そうとして」尋ねているのですが、ここでイエスは「神様を愛すること」「人を愛すること」の二つの箇所を一つの掟として答えています。
一見すると矛盾した答えに聞こえるかもしれませんが、「愛する」を「大切にする」に読み替えてみると、そのつながりが見えてきます。
神様という相手を心から大切にする、ということは、神様が大切にしているものを自分も大切にする、ということに繋がります。
神様は悪人でさえ天の国に招かれるほどすべての人への愛を持っておられる方ですから、そのように「隣人を自分のように愛する(大切にする)」ことが、そこに結びつくわけです。
これは最終的に、最後の晩餐の際に弟子たちに命じられた「新しい掟」──「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ福音書13:34)」として、神様を信じ愛するすべての人にとっての最も重要な判断基準になる掟なのです。