しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
──マタイ福音書 5:44
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スティーブン・コビー博士が提唱している「7つの習慣」では、第四の習慣からは自分の周りの人々との関係性をより良く保つための習慣となっています。
その初めに勧められている第四の習慣は「Win-Winを考える」というものです。
私たちは誰しも、何か利益になるような側に立ちたいし、できるだけ心地よい、いい気持ちで過ごしたいと願うのが普通です。
しかし、その心地よさ、利益のために、自分以外の誰かが損をしてもよい、嫌な気持ちになってもよい、と考える人も多くいるのです。
コビー博士はこれを、Win-Loseの考え方と読んでいます。
だからこそ、私にとっても、関わり合うあなたにとっても、お互いにWinになるように──お互いに良いことがあって、お互いにそれに納得できる方法をいつも考えてみましょう、というのが、第四の習慣「Win-Winを考える」という習慣なのです。
この第四の習慣を実践に移そうとすると、意外と難しいことがわかります。
元々仲の良い人同士なら、すんなりとWin-Winを考えることもできるでしょう。
しかし、よく知らない相手、ましてや嫌いな相手のWinを考える、ということは、誰しも気が進まないものだからです。
そういう私たちであるからこそ、イエスは弟子たちに向かって、今日の聖句を教えていったのだと思います。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44-45)」
イエスが言う、敵を愛せという教えは、聖書の中で一、二を争うほど従うのが難しい教えの一つだと思います。
イエスの目の前にいた人々でさえ、同じように思ったことでしょう。ではなぜ、イエスはそんな難しいことを人々に教えたのでしょうか。
それはきっと、私たちに想像してほしかったのだと、私は思います。
想像してみてください。
もし、あなたが世界で最後の生き残りになってしまったとしたら、どんな気持ちになるでしょうか。
人が一人もいない、荒れ果てた世界の中で、ひとりぼっちです。とてもさびしいし、生きるということ自体が虚しくなるでしょう。
でもそこで、奇跡的に生き残ったもう一人の人に出会ったとしたら、どんな気持ちに変わるでしょうか。
その人がたとえあなたにとって最も嫌いな人、もっとも許せないと思う人だと気づいたら、どうでしょうか。
それでもあなたはその人にゆるせないという気持ちを抱え、憎み続け、仲違いし続けるのでしょうか。
それとも、たった二人だけの世界の中で、お互いの無事を喜び、和解し、「あなたがいてくれてよかった」と言い合えるのでしょうか。
このように、イエスが私たちに望まれた「敵を愛せ」という教えは、私たちがひとりぼっちになってしまう、ということの不安を考えると、よくわかると思います。
ひとりぼっちであることの悲しみとさびしさ、生きることの虚しさを体験した人や、あるいは深く想像をしたことがある人であれば、あなたを決して一人ではないよというその言葉がどれだけ嬉しい言葉であるのかがわかるはずです。
だからこそイエスは、その想像力を私たちに与えるために「敵を愛せ」と、敢えて教えていったのかもしれません。
私たちがそのような想像力を持って、たとえ自分にとって敵のように思える相手であったとしても、その人も自分と同じ一人の人間だとして大事にすることが出来た時、初めて「Win-Winを考える」という習慣に踏み出していくことができるようになるのです。
神様は、聖書に語られている全ての場面において、常に相手──人間にとってのWinを一番に考えて関わろうとされるお方であることが証しされています。
神様が過ちを裁かれるのは、私たちが滅ぶことなく正しい道に立ち返ることができるようにです。
神様が悔い改めを求めるのは、罪を赦されるという恵みと喜びに気づいてほしいからです。
だからこそ、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)」という新しい掟をもって、神様は私たちに「Win-Win」の関係性へと招いておられるのです。