福音書通読と解説を書き続けて
8月は毎日ブログを書こう!というブロガーストという企画に乗っかって、マタイ福音書通読のための解説記事を書き続け、20日になる。
実際は既に数日分のストックを先に書き進めているので、今日更新の記事から数日分書いた後の感想ではあるんだけど。
マタイ福音書は28章で終わりなので、あと数章分の解説を書いたら終わりなのかと思うと感慨深い。
今更なのだが、今第1章の解説を見ると短いし、もっと書けることがたくさんあったのに、と思う。
初めは1000文字程度縛りで書いていたのもあって、途中から「いや、1000文字じゃまとめきれないだろ」と文字数制限を撤廃してしまった。結局2倍以上の文字数になっている章もある。
そして、書けば書くほど「イチから書き直したい、もっと言えることがあるはずだ」と言う気持ちが強くなっている。
書くことで深まる
聖書とは2000年以上前に書かれた書物だ。
旧約聖書に至っては3000年近く前になる。
そんなに古い書物なのに、読んでも読んでもまだ気付かされることがある。
何千年も読みつがれるだけの真理、その耐久性の高さは、繰り返し、深く読もうとすればするほどに明らかになっていく。
今年の初めに新約聖書通読を始めて、初めてマタイ福音書を最初から順に読み通した時の感動が、今も自分を突き動かしている。
そしてそれは、読むだけでなく、読んで受け取ったものを言葉に書き起こすことで、いっそう明らかになってきた。
言葉にすることで、深まっていく。
よく言われることではあるけれど、ただその表現を知っていることと、この身で実感することとの間には天と地ほどの差があると今では思う。
かつて福音書を読み、そしてそれをほかの誰かに伝えたいと願って写本を作り始めたその人が、原本の表現に手を入れてしまったその気持ちが、少しだけわかる。
もっと伝わるように、もっとわかりやすく、もっと……、もっと……。
そうして編集された部分が、今となってはオリジナルの本文に遡ることが困難な理由になってしまっているけれど、でもそれもまた、恵み深い喜びに満たされていたからこそではないかと思わずにはいられないのだ。
読むと、書きたくなる
毎日マタイ福音書通読解説を更新しているのに、さらに日記のような記事を追加で更新している。
こんなに書くモチベが高いのはきっと、他の人が書いた文章を読んでいるから、なんだろうな。
ブローガストという機会にいろんな人のブログを知って、その文章を毎日読んで、という生活をしていると、「自分も書きたい」ということが生まれてくる。
書きたいことがあると、書かないわけにはいかなくなる。
時間がない、忙しい、は理由ではない。書きたいという気持ちは、忙しいなかに時間を割いてでも作っていくことを後押しするものなのだ。
ブローガストが8月限定で終わっちゃうので、その後もBlueskyのブロガー同士ゆるーく繋がりたいね、みたいなことを言ってくれた人がいて、そうだ!そうだ!となったので「青空ブログ部」feedを作った。
みんなこぞって見てくれているみたいで、惜しいと思っていたのは自分だけではなかったのだなと知れて嬉しい。
読んで、書いて、深められて。
そのどの行程にも喜びがある。
言葉はきっと、神様からの贈り物だ。