イエスの十字架が私たちの罪を赦すためであったのなら、なぜ罪を赦された私たちがイエスの復活にも与れるということになるのかという問いに対して、そうか、と気付く。
イエスは十字架で釘打たれ、死に至ったあと、どこで復活したのか? それは墓の中だった。決して罪の償いのための十字架の上で復活されたのではない。

一度降ろされている。

だから無実のイエスが代わりに贖ってくださった私たちの罪は、あの十字架に釘付けにされたまま、離れたのだ。
そこからイエスだけが降ろされた。その時、つまりイエスと同じように私たちが罪の報酬としてこの世の死に達する時、パウロが言った言葉が真実になるのだ。

「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。(ロマ6:6-8)」

もはや神は、私たちをその罪のゆえに、十字架につけたりはなさらない。

「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(2コリ5:17)」