ヨハネによる福音書 14:27

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

普通、平和だ、と私たちが感じる時はどんな時だろう。
たとえば穏やかな、さえずる鳥の声を落ち着いて聴く余裕がある朝。眼前で名も知らぬ子どもたちが無邪気に遊んでいるのを見た時。
いずれにしても、私たちを取り巻く「周り」が平穏である、ということを、「平和」と呼ぶことが多いのではないか。

『七つの習慣』と言う本の中で、「影響の輪」と言う話が出てくる。円を一つ書いて、内側が「自分の力で変えられるもの」、外側が「自分の力では変えられないもの」として分ける。
一般的に考えた「平和」はどちらだろう。きっと、自分一人では成し遂げられない、変えられないもの、として外側に置く人が多いかもしれない。

しかしイエスは言う。「私の平和は、世が与えるものとは違う」のだと。
この言葉は、イエスが十字架刑へと引いていかれる前に語られた言葉だ。弟子たちは戦々恐々としていて、事実イエスを逮捕しに来た兵隊に対して剣を振り上げ、耳を切り落とすほどだった。彼らは完全に平和を失っている。しかしその状況の中でもイエスは「剣を納めなさい」と促し、無抵抗で無実の罪に引かれていった。ここに、イエスの示す平和がある。
イエスが与える平和とは、私たちの身の周りの状況によって左右されるような朧げなものではない。私たちがどのような状況の中にあったとしても、私たちのうちに保たれる平和のことだ。揺るがず、怯えず、躊躇わない。平和であると言う状態の自分を見失わないことだ。

私たちの心が怯え、恐れの中にある時、私たちは傷つけたくない誰かを傷つけてしまうかもしれない。周りにある全てのことが信じられなくなって、孤独の中に留め置かれてしまうかもしれない。
しかしイエスは言う。「平和はあなた方の中に残されている」と。それはイエスが自分の死に際してさえ保ってくださった平和な心だ。イエスが揺るがないから、私たちも揺るがずにいられるのだ。

平和を保っている人のところに、人々は集まる。安心したいからだ。でも、それを跳ね除けてはいけない。自分の中にある平和を分かち合うことができるような、そんな言葉をかけていきたい。大丈夫、心配ないよ、きっとどうにかなる。たとえそれが全く現実的ではなくて、この世の誰一人信じられない状況の中で語られた言葉であったとしても、きっとイエスはその時にも迷いなく言うだろう。
イエスに信頼するからこそ、私たちの言葉もきっと、誰かの心に平和をもたらす希望の光になるのだ。