ルカによる福音書1:1-3
わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。
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ルカによる福音書の筆者は、このような言葉から福音書を書き始めている。
そして筆者はルカ福音書だけでなく、続く第2巻である「使徒言行録」をも書いている。
それはイエスの生涯からキリスト教会の成立の歴史を総覧するものであって、そこに生きた神と人との関わりが確かにあったということを証しするものだ。
使徒言行録がルカ福音書とは別の書として書かれているのは、単純に当時の一冊という単位が羊皮紙のサイズによって決まっており、羊皮紙に書ききれなかったからだと言われている。
そして一冊のみならず二冊もイエス・キリストに関わる文書を書き上げたのは、より多くの人々にそれを知ってもらうためではなく、「テオフィロ」というたった一人の人のためであった、ということがここに示されている。
私たちがたった一人の人に何かを伝えようと思うとき、どれほどの熱意をそこに込められるだろうか。
時間と心と労力を割き、伝えるべき内容を吟味し、整え、添削し、当時においては直筆で書き記していく。
それだけのものを、あなたのためなら費やしてもよいという強い思いを、一人の人に向けていくということを思うと──私たちにも問い返されているように感じる。
私たちはそれほど深く誰かのことを考え、その人のためになることを時間をかけて準備し、熱意をもって関わろうとしたことがあるだろうか?
筆者を動かしているのは、コスパではないし、その対人関係によってもたらされる利益のためでもない。
ただ、その人のためにという愛だ。愛から溢れ出す熱意だ。
その愛は人から人への愛ではない。なぜならこの文書は人から人へ送られているラブレターではなく、神様から人へ送られる愛のメッセージ──福音について書かれたものだからだ。
だから、筆者自身の愛というよりも、神様の愛に突き動かされて、それを分かち合おうとしていると言えるだろう。
私たちが誰かを愛するというときに、どうしても自分の努力によって愛そうとすると、そこには限界が来る。
それは、人間の愛には限りがあるからだ。
しかし、自分の中にある愛によって関わろうとするのではなく、「どれだけ”わたしたち”が──わたしも、あなたも、神様から愛されているか」ということを分かち合うためであれば、そこには無限の神様の愛がある。
尽きることのない熱意と寄り添いはそこからしかやってこないし、維持することは出来ないことを、ルカ福音書の筆者はこの数節で示してくれているのだと思う。