ミカ書 5:1
エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。 お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。 彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
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旧約聖書をさかのぼって物語を読んでいくと、神はいつでも「小さい者、弱い者」に目を留められることが多い。出エジプトの物語などは特に象徴的なものだろう。
エジプトによって理不尽な重労働に課せられていたイスラエルの人々を、絶大なファラオの権力から十の災いと海を割る奇跡などを通して救い出していく。
彼らが何か他の人々よりよりも優れていたり、信仰深かったりしたわけではない。
そうやって救われたイスラエルの民でさえ、カナンの地にたどり着くまでの間、何度も神に文句を言い、反抗し、ついには自分たちで神の彫像を作って拝むということさえし始める人々だった。
しかしその弱さを、神は慈しみ、また罪に対してはしっかりと裁かれる。それを聖書は愛と呼んでいる。
そしてこの世の救い主は「いと小さき者」と呼ばれたベツレヘムで生まれるという預言が、クリスマスの出来事を思い起こすときに、通奏低音のように響いている。
それは、私たちの人生が最も調子よく進んでいるときに神が私たちと共におられるのではなく、私たちにとって何もかもうまくいかない、多くの人が神から見放されたと思うような時にこそ、小さくされた私たちの心のうちに、神はキリストを置かれるということだ。
パウロもコリントの信徒への手紙Iでこのように言う。
「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。(Iコリ1:26-29)」
私たちが弱さの中にあるとき、私たちが焦りや失敗の中にあるとき、私たちが無力さと己の未熟さを感じる時、そこにキリストはおられる。
一人では何もできない無力な幼子として、この世に来てくださった。
だから、私たちのその挫折と無力さに寄り添い、私たちをより良い姿へと向かわせるためのきっかけとして、支え励ましてくださるお方なのだ。