マタイによる福音書 18:20
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
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この聖書の言葉は、「二人または三人」、つまり「集まる」という最少人数で私たちが集うとき、既にそこには神様がおられる、ということの証として聞かれる言葉でもある。
だからそこに、聖書の言葉が語られ、分かち合われるとき、そこに神様が共におられ、神様が私たちに語ってくださっている、ということが信じられていくことになる。
教会という言葉も、ギリシャ語では「エクレシア」=「人の集まり」を意味する言葉から来ている。
このような聖書の箇所があるからこそ、キリスト教会の牧師は、たった一人でも聖書の言葉を聞きたいという信徒がいれば、その人の家で家庭礼拝を持つこともある。
礼拝とはまさに「二人または三人」――牧師ともう一人が聖書の言葉を求める時に、どのような場所にあっても始められるものなのだ。
個人的にはすごくお気に入りの箇所の一つでもある。
というのは、こうやって誰かと集まって礼拝をするという時には、ひとりで祈るよりもいっそう、聖書の言葉も、真に迫ってくるように思う。
慰め深く、励ましに富み、また力強く支え、時には戒めへと導く。
人が二人、三人と集まれば、自然と言葉を交わす時間が生まれる。それは聖書の言葉についてのことだけでない、何気ない日々の出来事を分かち合うことや、ささやかな悩み……それを通して、私たちは自分の外側に自分と同じ人間がいて、様々に感じ考えながら生きている、ということを再発見する。
ありていにいえば、「私たちは一人ではない」ということを確認するという時間にもなる。
それはつまり、神が私たちと共におられる、ということと同義だ。
聖書は神をイエス・キリストという人間の姿をもって示された。
それは神が、私たちの何気ない、しかし逃れることのできない一人一人の心を、同じように持ってくださったということ、分かち合ってくださったということに他ならない。
だからわたしたちがどんなに少なくても「集まること」――聖書の言葉を聞き、礼拝をする――中に、神様もまた、加わってくださり、私たちが交わしあう言葉の中に、神様は生きていることを信じ、実感することができる場としてくださる、そういう聖書の言葉なのだ。