私たちはしばしば順序を逆にしてしまう。
手段と目的が逆転するように。
特に神様に関してはいつもそうなってしまう。
神様を信じれば平安が与えられる。それは確かなことだ。
しかし平安を求めるあまりに、無理やり自分の気持ちをねじ曲げて、神様を信じたふりをしてしまう。
そうしてなお平安が訪れないことに対して絶望し、神を呪い、さらに信仰から離れていってしまう。
これは16世紀の宗教改革の時だってそうだったし、
イエスを前にした律法学者たちもそうだった。
私たちはいつも神様に問う。
「あなたは私たちが欲しいものをくださるんですよね?」
神様は言う。
「その通り、あなたにとって一番良いものを与えよう。しかし、その時期と、何が与えられるかは私に任せなさい。」
これにイエスと言えるのが信仰だ。
これにノーと言わせるのが罪であり、悪魔の誘惑だ。
主体は私たちではない。神様は私たちの欲望を言うとおりに満たしてくれる機械ではないからだ。
求めるものが与えられないように感じるのには理由がある。
時期が今ではないのか、それとも求めるものが間違っているか。
しかし祈りは聞かれている。
求めるものが間違っていても、求めているということは知られている。
だから、求めるものでなくても、求めたその瞬間でなくても、神様は必ずその祈りに応えてくださる。
そしてそれが、一番良かったことだとわかるのは、いつだってあとになって振り返ったときなのだ。
だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。(マルコ11・24)
必要だから祈るのではない。
祈った先で、神様はすべての必要を満たしてくださると信じるからこそ、祈るのだ。