イエス・キリストが愛とゆるしを強調したからと、
「キリスト教ってどんな罪を犯してもゆるしてもらえるって教えてるんでしょ? でもみんなそんなことをしたら無法地帯になっちゃうよね」
と嘲笑されることがあるんだけど、そうじゃないんだよね。
イエスも「わたしが来たのは律法や預言者を…廃止するためではなく、完成するためである。(マタイ5:17)」と言っているように、神のゆるしは罪を見過ごすものではなくて、むしろ罪を見逃さずにしっかりと裁き、その上で罪を悔い改めてこれからはまっすぐ生きていけるように、ゆるしを強調した、ということなんだ。
叩き潰しただけでは悪はなくならない。
悔い改める余地がなければ繰り返される。
悪を野放しにしていいなんて誰も思わない。
罪は罪であり、法に従って裁かれるべきだ。
でもイエスが言ったことは、悪人を見たら「もしかしたら一歩間違えれば自分がそうなっていたかもしれない」という心を持ってほしいということだった。
私たち感情にまかせ、自分を正義に定めて悪を断罪するとき、どれだけその悪人に自分の姿を重ねて見れているだろうか。
あなたがその悪人だったらどんな断罪を望むだろうか。
その先の人生をどのように歩めるだろうか。
そういう視点をすぐ忘れてしまう私たちであるからこそ、気を付けるようにとイエスは呼び掛けているのだと思う。
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)