substackで見つけた、ハガルとイシュマエルとの対比で解き明かす解釈を初めて見た。面白い。
対比せずに見た時、アブラハムが息子を救うために神に懇願しなかったのに、ソドムの罰を回避するために神に懇願し交渉する──その矛盾は、神に願う理由にあるように思う。
つまり前者は自分の願い(息子を救う)を叶えるための懇願であり、後者は他の誰かを救うための執り成しであるということだ。
イサクを捧げよと神が望まれていることと、イサクを殺したくはないという自分の望みのどちらが正しい信仰的な振る舞いであるのか、アブラハムにも葛藤があったはずだ。
なぜならアブラハムは「捧げ物の羊はどこか」とイサクに尋ねられた時、「お前がそうだ」とは言わずに「主が用意される」とごまかしているからだ。
神の言葉に文字通り服従することが正しい信仰の在り方なら、遺作に真実を告げ、イサクもそれを受け入れるという話になってもおかしくないはずだった。
だからそのアブラハムの葛藤、信仰の揺らぎと迷いも含めて、神はそれを「真の信仰」と認めてくださったということではないかと、イサクの犠牲の箇所を私は読んでいる。
だからこそ、汚れた霊に取りつかれた息子の父親が「信仰のない私をお救いください(マルコ9:24)」と叫んでなお、イエスはその叫びを聞き入れ、癒してくださった。
ここに、一貫した神様が見えてくるように思う。