ふと思う。宗教はたしかにこの世の答えの出ない問題に答えを与えてくれると思うけれども、でも万能ではないのでその答えが唯一にして絶対の答えになる、というわけではない。
科学や哲学やその他の様々なもので答えが出なかったからと言って、宗教の答えが絶対なのだからぐうの音も出ないような唯一絶対の解を出せないのはおかしい、とする人がいる。
でも、聖書のヨブ記にもあるように、理由のない理不尽はこの世に存在するし、それにふさわしい理由を必ず見いだせるわけではない、と聖書は教える。全てを知ろう(知ることが出来る/答えがある)と考えることこそ、アダムとイヴが願った「神になりたい」という罪の根源ではなかったか。
私たちは神のように全てのことに答えを出せるわけではないし、聖書が神の言葉であったとしても神自身ではないので同じく答えが書いてあるわけではない。
あくまで聖書は神からの答えを導く方法論を教えるものであって、神様の考え方の道筋を、人間にわかるように言葉にしたものに過ぎない。
神そのもののすべてがそこにあるわけではない。
だから神様はヨブに「お前は一生に一度でも朝に命令し/曙に役割を指示したことがあるか(ヨブ記38:12)」と問いかけたように、聖書を、宗教の教えを極めてなお、神の考え、神の働きの全てを知ることはゆるされていないのだと思う。
そのような意味で、キリスト教批判の一つである「キリストを信じずに既に召された者の救いについて」の是非は実際のところ神ご自身にしかわからないし、わからないからと言って神やキリスト教が不完全である、ということにはならないと思う。
わからないというより知ることをゆるされていない。
だから、「きっと神様はその人をお見捨てにはならないだろう」と想像することはできても、本当にそうであるかは確証はない。
でも、そうであってほしいと祈り、神に委ねることが、本当に信じずに召された人が救われてほしいと願う人にとっては慰めや救いになる、という視点を忘れてはいけないと思う。