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聖書は同性愛を禁じているのか?


以前ウチの教会に、「男性同士で結婚式を挙げたいのだが、そちらの教会でやってもらえないか」という問い合わせが来たことがある。それをきっかけに、聖書において同性愛がどのように扱われているかを改めて調べる機会があった。

長らくカトリック教会は同性愛を否定してきた(今は変わりつつある)。しかし、聖書が書かれて2000年、本当に聖書は同性愛を否定しているのかと改めて読んでみると、現在の同性愛と呼ばれるものを聖書は否定していないんじゃないか、と思うのだ。

同性愛について言及している新約聖書の箇所をいくつか挙げてみたい。

同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。

(ローマ1:27)

正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者……

(1コリント 6:9)

これを見ると、聖書の中で同性愛は主に男性同士の性行為を指すものとして言及されている。しかし、同時に「情欲を燃やし」「みだらな者……姦通する者」が並べて書かれていることから、ここで避けるべきものとは、「性的欲求を抑えきれず、その快楽におぼれてしまうこと」が趣旨であることがわかる。その一つとして同性愛(主に男性同士の性行為)が挙げられているのだ。

なお、男性と女性の間での性行為については、その欲を抑えられないなら結婚しなさい、と書いてあるので、結婚した相手と性行為をする、ということについては聖書は否定していない。

しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。

(1コリント7:9)

この「情欲を燃やし」て行う性行為(男性同士のものも含まれる)がダメ、「結婚」を伴う性行為はOKという線引の根拠を考える時、キリスト教会は「お互いが合意の上での生殖のための行為」であればOK、という解釈をしたのではないか。

それに伴って、生殖を目的としない性行為は全て、快楽のため、つまり情欲のために行われる恥ずべきもの、と線引をしていったのではないかと思う。その筆頭として槍玉に挙げられたのが、結婚も出来ず生殖行為ではないもの、それはすなわち男性同士の性行為が一番当てはまる、ということから、同性愛に対しては断固として廃絶しよう、と考えるのは自然な流れのように見える。

しかし少しここで立ち止まって考えたいのだ。

この聖書の言葉が語られていた初期キリスト教会の文脈では、教会内に起こった問題に対して正しいキリストの教えから解決させる目的で書かれているものだ。

当時のキリスト教会の在り方は使徒言行録などに記されているとおり、「人の欲」との戦いだった。基本的に自給自足、お互いのものを持ち寄って質素な暮らしをし、町の人々に奉仕することでその日暮らしの生計を立てていたのだ。

そのような暮らしの中で、欲を抑えきれなくなる者が出てくることは人の性(聖書では罪と呼ぶ)であり、そのうちの性欲(情欲)が、身近な相手、多くは同性に向かうのはあり得ることだっただろう。

つまり、聖書の言葉が禁止をしているのは同性愛そのものではなく、「情欲に駆られて行う性行為」であり、それを「みだらな行い」と表現しているのである。

その行為が生殖を伴うためのものか否かで「みだらな行い」になるかどうか、という視点は聖書には一言も書いてない。ただ、生殖を伴わない行為としての性行為の方が、純粋に快楽のための行為となるために、エスカレートしやすいという傾向があるというだけであり、当時の状況おいては男どうしの性行為がそれに当てはまった、というだけなのだ。

さて、初めの2人の男性が結婚式を挙げたいという話に戻ろう。

キリスト教会は、「神の(真実の)愛」を宣べ伝え、その愛に生きるようにと人々に教え導くことを使命として課せられてきた。だからこそ、「情欲に駆られて行う性行為」を廃絶しようとした。

彼らは確かに同性愛のカップルだ。しかし、「結婚式」を求める関係性ということから考えれば、彼らが聖書の言う「情欲に駆られた」関係性ではないことは明らかだろう。

それどころか、現代における同性愛──LGBTQの人々の関係性を、聖書の言葉を文字通りに利用して「みだらな」関係性だと決めつけることは、決してあってはならないことだ。なによりそれは、キリスト教会が教えるべき「神の愛」から最も遠い振る舞いではなかろうか。

キリストが弟子たちに守るべき掟として与えられたものはただ一つ、「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」ということだった。

キリストが教えられた愛とは、相手に目を向ける愛だ。相手を愛するがゆえに、配慮し、支え合い、喜びも悲しみも分かち合う関係性のことだ。その愛は、お互いに向けられる心から生まれるものだ。

そしてそれは、目に見える生物学的な性に囚われるものでは決してないはずだ。

あの日電話をかけてきた2人に、今なら牧師として、祝福の言葉をかけてあげたいと思う。教会の礼拝堂で、神の前でお互いの愛を誓い合ってほしいと願う。神はそれをきっと喜び、祝福してくださることだろう。


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