その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
(ルカによる福音書2:8-15)
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クリスマス、おめでとうございます。世間はどこを見てもクリスマスの賑わいに包まれているように思います。
コロナ禍が2020年の1月から始まって、もうそろそろ丸四年を数えることになりますが、今となってはコロナ「禍」、”わざわい”と呼んでいた時期も過ぎ去り、私たちはだいぶん、以前のような生活を取り戻しつつあるようにも思います。それ自体は喜ばしいことです。
しかし、何もかも元通り、というわけではありません。むしろこの約4年間の間、様々な制限が課され、自分の思い通りに事が運ばないことが、たくさんあったと思います。そこで我慢させられたり、不満を抱えてきた事もあったのでないでしょうか。今の時代には、そのように溜まった我慢や不満の揺り戻しがそこかしこで起こってきているようにも思うのです。
ニュースを見ると、一方的な思い込みや自分勝手な思い、衝動的に起こされた心無い事件が、コロナ禍が落ち着くにしたがって反比例するように、だんだんと増えてきているようにも見えます。
そこには、たまりにたまった不満や不安、疲れや行き場のない怒りなどが今になって噴出し、誰かの命を尊ぶことができなくなっている人がいる、ということが、理由の一つとして挙げられるようにも思うのです。
世界に目を向けるならば、必ずどこかで国と国との戦争が起こり続けています。特に、私たちが最近よく耳にしているのは、イスラエル・ガザの戦争のことです。イエス・キリストが生まれ育ったあの地が、今世界で最も平和が失われた地になっています。
なぜ、このようなことが、起こり続けているのでしょうか。
私たちは今日、町中に満ちている、クリスマスのきらびやかな喧噪から少し距離を置いて、考えてみたいのです。
ニュースで語られている心無い事件や、遠い国で起こっている戦争は、決して私たちとは別の世界の問題ではありません。突き詰めてシンプルに考えれば、その原因は、私たち一人ひとりの心の問題に行き着くように思うのです。
そしてそれは、聖書が語るように、イエス・キリストが生きた2000年前から全く変わらない、私たち人間の現実であるのです。
イエス・キリストの誕生は、決して大々的に行われたのではありませんでした。イエスはベツレヘムというユダヤの小さな町で、満足な宿もなく、馬小屋の飼い葉おけでひっそりとお生まれになりました。そして、その誕生を誰よりも早く知らされたのは、羊飼いたちであったと聖書は語ります。
当時のユダヤでは、この羊飼いたちは最も神様の救いから遠いとされていた人々でした。つまり、ユダヤの人々から、最も蔑まれていた人々であった、ということです。
なぜかというと、当時のユダヤでは、旧約聖書にある律法をどれだけ完璧に守ることができたかによって、その人がどれだけ神様に正しく、救われるに値する人かどうか、が判断されていたからです。それを判断していたのは、当時のユダヤで高い社会的地位を持っていた律法学者やファリサイ派の人々でした。
彼らは聖書の律法を生活の中で厳しく守り、人々に教える側であったからこそ、自分たちのことを、誰よりも神様に詳しい、神様に正しい人々だと思っていたのです。そして羊飼いたちは律法を守らない人々なのだから、神様に正しくない、神様から見捨てられた、蔑むべき存在だと見ていたのです。
しかしその羊飼いたちに、神様は誰よりも早く、救い主の知らせを伝えていきました。それは、彼らが律法をわざと守らない人々だったのではなく、遊牧生活の中では律法通りの生活を送ることがままならない人々であったからです。
ですから、そのような羊飼いたちにこそ最も早く救いを伝えられたという出来事には、神様が何を最も大事にしておられたのかということが表されているのです。
それは、律法を根拠に、人が他の人を差別し、神様の救いに値しないと選り分けていく──そのようなことを人々にさせるために、神様は律法をお与えになったわけではない、という証であるのです。
そのような出来事から誕生物語が描かれ始めたイエス・キリストは、その公の生涯においても、ここに示された神様の御心を繰り返し表すために、歩んでいかれました。
律法を守れない人々、社会から取り除かれるべきだと考えられていたのは、羊飼いのように職業的な差別を受けていた人々だけではなく、病を患っている人や、悪霊に取りつかれた人々もそうでした。特に後者は、現代では精神疾患を患った人であったり、生まれつきの障害を持った人々であったともいわれています。
2016年に相模原の障害者施設で起こった大量殺人事件を思い起こします。あの事件もまた、障害を持った人への差別思想から引き起こされた事件でした。
イエスの時代から2000年経った今でもなお、人権が確立され、いのちは等しく尊ばれるべきだと教えられ、差別はいけないことだと誰もが頷く社会の中で、それでも差別から逃れられない、人が人を選り分けていく現実があるのです。
先日、私たちはクリスチャンです、という方々が教会にやってきて、「祈らせてほしい、そのための場所を探しているんです」と言われました。初対面で、事前の連絡もなく突然の訪問だったため、どこか怪しいな、と疑いながら彼らを見ていましたが、本当にただ礼拝堂で静かに祈り、帰って行かれました。
その帰り際に、その方々はこのようにおっしゃられました。「クリスマスという喜ばしい時期だからこそ、今のこの世界を見ると、平和を祈りたいと思います」。
このように言われて、私は自分が恥ずかしくなりました。ただ純粋に神様に祈りを捧げに来た人に対して、あらぬ疑いをかけている自分に気付かされたのです。自分の心にある差別の心を、ともすれば平和を失わせる心を、明らかにされたような気持ちがしました。
この時期は教会でも「クリスマスおめでとうございます」という言葉を交わしあいます。しかしそのクリスマスの出来事、イエス・キリストの誕生とその生涯に込められた神様の御心を考えるとき、私たちは今日、喜び合うことと同じくらい、祈りあうことも大事なのではないかと思わずにはいられないのです。
2000年前に、人々の自分勝手な思いと欲望によって、イエス・キリストは無実でありながら十字架へとかけられていきました。あの時から、私たち人間は何も変わっていないのです。神様が私たちに願っておられる平和は、私たちの心によって、ずっと不安定なまま、危機にさらされ続けています。
しかしだからこそ、神様は強い願いを持って、クリスマスのあの日、天使たちの口を通して、このように御心を語られたのです。
「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
平和が常に危うく失われかけているこの世界の中で、「地には平和」があるように、御心に適う人の心に平和があるように、という神様の呼びかけ、神様の祈りがここにあるのです。
この御心に適う人というのは、イエス・キリストお一人だけを指しているのではありません。キリストはご自分が平和を成し遂げる方であると同時に、すべての人が、他の人々との平和を保つことができるようにと教えられた方でありました。だからこそ私たちもまた、一人一人がキリストの言葉に聞き、平和を保つ人となるように、御心に適う人となるようにと神様から招かれ、祈られているのです。
クリスマスにはろうそくを灯して礼拝をする、ということが伝統になっています。それは、キリストが「世の光」として来られたからだと聖書にあることからきています。そしてそのキリストは、私たちもまた「世の光」、平和をもたらす希望の光とされていると、語ってくださいました。
ろうそくの火は、ふっと風が吹いてしまうだけで消えてしまいそうな、小さな光であります。キリストが私たちの心に灯してくださった平和の光とは、まさにこのようなともしびであるのです。
私たちが余裕をなくし、自分のことだけを考え、隣人に心を注ぐことを忘れるとき、この平和のともしびはすぐに消えてしまうほど弱いものです。
だからこそ私たちが、繰り返し悔い改めをもってこの平和の灯を大事にしようとするとき、私たち一人ひとりだけではなく、関わり合うすべての人との平和を保つことへと繋がっていくのです。
ですから私たちは、改めて今日、私たち自身のことを振り返ってみたいと思います。
私たちもこの一年の歩みの中で、平和を失ってしまった時があったかもしれません。自分のことで精いっぱいになってしまったこと、誰かを尊ぶことができなくなったことが、あったかもしれません。しかしそのようなあなたの心に、キリストは今日、平和のともしびを灯してくださっているのです。
だからこそ私たちは悔い改めをもってキリストの言葉に聞き、この世に平和を分かち合う関係性を、関わり合うすべての人との間に保ってまいりたいと思います。そこに響き続ける、神様の祈りに耳を傾けていきたいと思うのです。
「地には平和、御心に適う人にあれ。」