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今年一年の歩みに、おつかれさま


シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。

(ルカによる福音書2:28-29)

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神殿で働いていたシメオンという人のところに、マリアとヨセフの初子として生まれたイエスが祝福を受けにやってくる。このシーンがクリスマスの次の日曜日によく読まれている。今年は大みそかが日曜日なので、本当に年の暮れに読まれる箇所になる。

このシメオンという人は「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」と記されている。つまりシメオンという祭司は、旧約聖書の預言にある救い主に会うまでは、死ぬことはおろか、祭司としての仕事を終えることはできないと神様によって定められた立場にあったのだ。そしてついにキリストに出会った彼は、喜びのあまり神様に賛美しながら、幼子イエスに祝福をするのである。

彼は祭司としての仕事をやめたがっていたわけではない。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。(2:25)」と彼について紹介がされている通り、自分が神様から与えられた仕事を全力で全うしようと日々頑張っていた人だったし、イエスがのちに目の当たりにする宗教指導者や神殿の祭司たちの堕落と身勝手さにも、嫌気がさしていたはずだ(この堕落と身勝手さが、後に無実のイエスを十字架にかけていくことになる)。

だからこそ「イスラエルが慰められるのを待ち望む」──腐敗した神信仰を是正し、本当の神様のお考え(御心)が示されて人々が救われることを祈り求めていた人であったのだ。それゆえに、イエス・キリストが来られたことを知った彼は、その時が来たことへの喜びと共に、そのために神様から与えられた働きを果たせた、言ってみれば仕事納めとしての喜びに満ち溢れているのである。

このようなシメオンの姿を記した聖書の言葉を、私たちは年の瀬において聞く。大晦日というのは、今年一年を振り返る時、またこれまでの歩みを振り返る時であるように思う。

わたしたちもきっと、今年一年、たくさんの働きを与えられ、次々と課されるやるべきことをこなし、へとへとになりながらも歩んできたのではないだろうか。仕事や勉強を頑張るというだけではない、病んでいる時には癒すための休息をとり、立ち止まっているなら次の一歩を踏み出すための準備をすることも、大事な働きの一つだ。

イエス・キリストがその生涯を通して人々に示されたことのひとつは、私たちが常に人と人との関係性の中に生かされている、ということだった。それは関わりあう他者だけではなく、自分自身との対話も含まれる。

そしてその一つ一つの関わり合いが、この一年、世界を動かしてきたのだ。わたしたち一人一人の働きは小さくても、その働きの積み重ねとつながりによって、目に見える事柄も、目に見えない誰かの心も、確かに変化させられ、考えさせられ、動かされてきた。

あなたの言葉が、あなたの心が、あなたの振る舞いが、あの日の誰かにとっての喜びや慰めになったかもしれない。そしてそれによって、私たち自身もその喜びを分かち合えたことがあったかもしれない。まさにここで、イエスがシメオンによって祝福され、その祝福の言葉通り、人々を照らす救いの光とされていったように。シメオンもまた、その祝福の言葉を送りながら、自分自身も喜びに満たされていったように。

そうした関わり合いが、今日までの世界を作ってきたのだ。つまりそれは、わたしたちも今年一年、この世界を造られた神様からの働きを担い、それを全うしたと言えるのではないだろうか。

シメオンの姿に示されている通り、神様は私たちの一年の歩み、神様から与えられた仕事を全うした者に、喜びをもって報いてくださるお方である。だからこそ、この一年を頑張って歩みとおしたわたしたち一人ひとりにも、神様が「おつかれさま」とねぎらってくださっていることを、この聖書の箇所から聞き取りたいのだ。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。」

一年の終わりを、このような喜びと平安によって締めくくってくださる神様がおられることを心にとめながら、今年最後の時間を過ごしていきたい。


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