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オーディンスフィア・グウェンドリン編の感想

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戦乙女(ワルキューレ)と言ったらヴァルキリープロファイルなんだけど、どうしてこう戦乙女という存在は美しいのか……北欧神話は人間味と神聖さの両立が魅力的。その意味でオーディンスフィアの世界観を最初にお出しするにあたって戦乙女グウェンドリンを主人公に添えているのももっともなことかもしれない。

ネタバレも気にせず書いていきたいんだけど、グウェンドリン編、ゴリッゴリに愛の話でしたね…。

グウェンドリンの父オーダインが敵国の女王と愛し合ってしまって子どもまで作ってしまったことが判明して、娘を愛することよりその子が処刑されることに苦しんでいる父を見て、グウェンドリンの心境を察するとものすごく揺さぶれられるよなと思う。

父に愛を求めていても返ってこない理由に「自分は、母は父(王)にとっては最愛の対象ではなかったのか」と理由付けがなされてしまう一方で、それでも娘として愛されたいという思いは取り除かれることがないし、父オーダインとしても、すごく感情の伝え方が不器用で、王という立場や前述の秘する関係のゆえに素直にグウェンドリンを愛せない、もどかしさのようなものが感じられるし、そのすれ違いがすごく人間らしい。

結果としてグウェンドリンは自らが求めている愛をオズワルドから受けていくことによって、愛されたいと受動的な立場から、愛するという能動的立場へとグウェンドリンの考え方が変わっていくのも、愛の力だよなと思う。

人間は愛されないと愛することはできない生き物であるし、その愛は不変のものではなくて、まさにグウェンドリンのセリフ通り、「愛はもとより幻のようなもの」。それでも「今はその幻を失う事の方が恐ろしいのです」と言い切るほどに、グウェンドリン自身を強く立たせる命の柱となっていくところに、単なる幻ではない確かなものとして愛というものが描かれている話だったなあと思った。

誰かに愛されて自分はその存在意義を認められる気がするし、誰かを愛するからこそ自分のいのちがどこにあるのかをはっきりと見出すことができる。その点において、愛されることと愛することはひとつのものなんだなあと思う。

愛という言葉が時代を経るにつれてどんどんと軽くなっていくような今の時代に、本当の愛ってなんだろうか?ということを改めて考えさせられる話だった。特に、グウェンドリンがためらいなく死の国に向かおうとするところ、死の国からオズワルドと一緒に帰ってきたとき、指輪を渡せと言ったオーダインに対して「オズワルドからもらった指輪と自分は(愛によって)一体となっている」という言葉からも、愛と命の結びつきが強く響いている。

イエス・キリストは十字架にかかって3日間後に復活したといわれている。その3日間(数えの3日間なので実際には1日半ぐらい)どこにいて何をしていたかというと、キリスト教会は「黄泉(地獄)に下り、アダムを救い出した」と解釈している。つまり、全世界の人々を救うためにイエスが死んだのなら、天地創造の初めからイエスの時代までの間に生きて死んだ人々もまた、救われるべきであろうという考え方だ。そこにはすべての人に向けられた神の愛が根拠になっている。

だからこそイエスの十字架は、当時においては極刑の処刑の道具であり、同時に神の愛と救いの象徴としてキリスト教では用いられてきた。自らの死さえためらわず、アダムを含むすべての人への愛のゆえに、地獄にいる彼らを救いに向かったイエスの姿は、グウェンドリンがオズワルドを救うために躊躇なく死の国へと向かっていった、その愛の姿と重なって見える。

愛は時間を超えて、誰かを救う。誰かを立たせ、自分ではどうしようもできなくなった人を救う。その真実は、神話の時代から変わることのないものなのかもしれない。


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