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マリオ好きのための「見る」マリオ

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「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」がAmazonPrime Videoで配信された。

劇場で放映されていた時から気になっていたマリオ初の映画を見た。その感想を書こうと思うんだけど、結論から言うと「マリオ好きのためのマリオ映画」になっていたので、マリオのゲームをしている人ほどおすすめしたい度が上がる良作だった。

マリオをプレイしたことなくて、知識が「マリオが赤くてルイージが緑でしょ?あとクッパがボス」程度の人には微妙かも。

何かど派手なアクションならなんでも楽しめるって人ならいいけど、ご都合主義的展開が気になっちゃう気がするから。でもそのご都合主義も、実はマリオの基礎知識(数々のアイテム強化で大逆転するとか、スターを取ると無敵になるとか)を下敷きにした展開だからこそ説得力を持つので、何も言わずにまずはマリオをプレイしてくれ。

現行機でオススメは「NewスーパーマリオブラザーズUデラックス(Switch)」です。個人的にはDSのNewスーパーマリオブラザーズのほうがよりシンプルだし好き。

ここからはネタバレ満載なので、見てないマリオファンは今すぐアマプラで見てきてね。

見どころ①小ネタがすごい。

スーパーマリオブラザーズ映画、何がすごいってマリオシリーズをプレイしている人なら一目見ればわかる小ネタがいたるところに散りばめられているということ。

これ映画全編マリオファンへのファンサと言ってもいいくらい、ネタが所狭しと入れられてくるし、ストーリーも王道マリオをそのまま踏襲していて安心して見れる。

マリオとルイージが独立後最初の仕事に出かけるときもワールド1-1がモチーフになっていたり、ジャングル王国でカートをカスタマイズするところはまんまマリオカート8のアレだし、BGMもそれぞれのシーンに合わせてアレンジされているのは完璧。徹底的に「見るためのマリオ」として、ゲームシリーズのナンバリングに並べてほしいくらいのリスペクトを感じた。

見どころ②キャラクター設定が今の世代風に味付けされている

マリオは時代とともに変化してきた。最初はドンキーにさらわれたピーチ姫を助けに行くマリオから始まり、ドンキーの代わりにクッパが登場して攫うようになり……毎回さらわれたピーチ姫を助けに行く、というストーリーラインはおおよそ同じ。映画もこれをベースに取り入れてはいる。

しかし、今の時代の「プリンセス」はただ攫われては助けを待つだけの無力な姫ではなくなってきている。今作のピーチ姫には力強さとリーダーシップがある。キノコ王国を率いるトップとしての責任を担っているピーチ姫は、実際のところマリオよりも強いし身のこなしも軽やかに描かれる。そして物語を動かす原動力の中心は、実のところピーチ姫だ。

ピーチ姫が迫りくるクッパの王国に力なく降伏していたら、物語にすらならなかった。ピーチはなんとかして「こんなにかわいい」と自称するキノコ王国の住人・キノピオたちを守るために単身、ジャングル王国の援軍を取り付ける同盟を画策する。

クッパのプロポーズを呑むのも仲間のキノピオを人質に取られたからであり、周りは敵だらけの結婚式において孤軍奮闘さえ厭わない。結構自分でも一騎当千のアクションを繰り広げたりする。

その一方でマリオは、あくまで「クッパに囚われている弟ルイージを助けたい」という利害の一致からピーチと共にいるキャラクターである。ピーチが引き起こした展開を最終的にはマリオが解決に向かわせる、という形を取っている。これはマリオシリーズが踏襲する動機(ピーチがさらわれる)と行動(マリオが助けに行く)の定型をオマージュしていて、同じ形が劇中繰り返されることでストーリーが進んでいくことになる。

また、マリオのキャラクター設定もいい。

彼は弱い。最後までピーチと違って力も戦う技術もないし、ずんぐりむっくりなビジュアルで、輝かしいヒーローとは言い難いキャラクター描写からこの映画は始まる。

マリオはヒーローではない。ヒーローになろうとしたわけでもない。クッパやドンキーに比例するパンチ力を持っているわけでもなく、ピーチを力強く口説いてクッパと恋愛バトルをするほど色男でもない。しかし彼の一生懸命でがむしゃらで決して諦めない姿は、ただ危機に瀕している誰かを助けようとする、それだけを行動原理としている。だから彼はマリオであり、劇中最も前面に描かれる主人公となっている。

マリオはスーパーマンではない。無敵でもなければ空も飛べない。力もないし、取り立てて知恵が回るわけでもない。普通の(しかも親からも期待されていないと感じているほどあまり上出来ではない)しがない配管工だ。しかし彼が唯一誇れるのは「決して諦めない」というタフな心である。勝ち目のない戦いのなかで一方的にボコボコにされても、ピーチ姫が一発でクリアした練習ステージを一日挑戦し続けてもクリアできないほど不器用でも、そのたびに大逆転のチャンスが、彼の周りからやってくる。

決して諦めなければきっと自分の目的に近付いていける。その諦めない心が、耐え抜く姿が、周りの人々の胸を打ち、支え合い助け合う絆を結んでいく。ご都合主義に見えるかもしれないが、それは結果だけを見るからそうなのだ。誰からも称賛されなくても、誰からも期待されなくても、チャレンジし続ける。それをかつての「スーパーマリオ」は教えてくれたし、今作のマリオは現実にも重ねられるドラマとしてそれを描き出そうとしてくれているようにも思うのだ。

そしてこれは穿った捉え方かもしれないが、クッパのキャラクターは前時代的な男性主権──スーパースターという世界を牛耳る力(権力)を誇示することによって女性が自分を好きになってくれると考えている──の価値観をベースにしているように見える。

だからこそ今作では特に強調されているピーチの女性像が、かつての「女性は弱く、男性に主権を握られている」もの(これは初期のマリオ作品によく見られるピーチ像でもある)とは真逆のキャラクターとして描かれている。当たり前のことだが長い間認められてこなかった「女性も1人の人間であり、男性と同じ意志と判断力を持つ」という姿が、ピーチというキャラクターを通していっそう際立たされている。

そういう意味で言えば、マリオは極めてニュートラルな(クッパの価値観で言えば魅力も甲斐性もない)キャラクターとして描かれているとも言えよう。そしてそのニュートラルさこそが、最も現代的な主人公にふさわしいキャラクターであり、万人にとって共感できる懐の広さを持っている。

なぜならこれは、マリオ自身が抱えるニュートラルさが引き起こす挫折──周りから求められるある意味での有能さを乗り越え、ありのままの自分を肯定するするための長い旅、というストーリーテリングにもなっているからだ。

彼は恋愛に勝ち抜くことによってではなく、強大なな敵を一人で倒すことによって力を示すのでもなく、兄弟への愛と共通の経験を通して絆が結ばれた仲間との助け合いによって、彼の心は癒やされていく。それは、男性(らしさ)や女性(らしさ)という枠組みを超えた、人間一人一人に等しく向けられている存在肯定の物語なのである。

最後に

これは紛れもなく僕が知っている「スーパーマリオブラザーズ」の物語だった。僕がかつて何度も何度もプレイした、あのマリオを、よくぞここまで現代的な文脈を取り入れながら、映画という形に落とし込んでくれたと感謝したいくらいだ。

マリオはゲームだった。マリオを動かすのは僕だった。だからこそ、僕が動かしたマリオがそうであったように、何度失敗したって諦めず、その歩みを止めない劇中のマリオの姿は、確かに僕にとってのマリオだった。

これまでマリオはゲームだった。「プレイする」マリオだった。そしてこれは、「見る」マリオだ。しかしそこで描かれているマリオは、「プレイする」と「見る」の垣根を超えてくれている。マリオが好きな全ての人々のために、もっとマリオを好きになってもらうために送られた、マリオファンのための最高のマリオだった。

久しぶりにマリオがやりたくなったな。

\テレッ テッ テレッ テッ/


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