ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。
──マルコ福音書1章14-18節
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キリストから弟子になるようにと呼びかけられた漁師ペトロは「網を捨ててすぐに従った」と聖書は語る。
そんな簡単に生業を捨てられるか、というと、当時であっても難しいはずだった。家業である。しかもそれ以外にペトロは秀でたところは特になかったはずだし、律法に特段詳しかったわけでもなければ社会的地位が高かったわけでもない、しがない漁師だった。
なぜ彼がイエスに二つ返事でついていったのか、ということの理由を考えても、なかなかこれだということは定まらない。代り映えのしない漁師の仕事に飽き飽きしていたとか、彼自身もまた救いを求めていたとか、いろんなことが言えるかもしれない。
ではなぜマルコ福音書は、その理由についてはっきりと示していないのか。聖書はイエスがペトロを弟子として招かれた、ということしか述べていない。しかしそれこそが、一番シンプルな、ペトロがイエスに応えていった理由だったのではないだろうか。
イエスはペトロを弟子にする前に、ガリラヤで「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と人々に教えていた。神の国が近づいている、だから福音を信じなさい、この言葉は、直接的か間接的かはわからないが、きっとペトロの耳にも届いていただろう。
「神の国」という言葉は原典のギリシャ語では「神様の支配が届く範囲」を意味する言葉だ。多くの人々が捉えていたように、神様のご支配と救いがもたらされる日というのは、具体的にはローマ帝国の属州からユダヤが解放される日のことだと思われていた。軍も兵力もない属州イスラエルがそれを成し遂げるには、もはや神様がそれを成し遂げてくださることを祈るしかない、そのような共通理解が一般的であっただろう。
しかし、ペトロはガリラヤの漁師だった。しかも、ガリラヤと言う片田舎の漁師である。
旧約聖書には「異邦人のガリラヤ」と記されている。この異邦人という表現は「神様の救いから最も離れている」ことを意味する言葉である。だからこそユダヤの人々は「ガリラヤから何か良いものが出るだろうか(いや出ない)」とさえ言っていたことを福音書は記している。
だから、ガリラヤはペトロにとって、律法学者たちが語るような、輝かしい神様の救いからは遠く離れている、誰からも神の救いに寄与することを期待されていない場所であった。
そしてペトロ自身も、自分は学もなければ社会的な地位も高くない、唯一のとりえと言えば漁をして生計を立てるくらいだ、と、そのように冷ややかに自分自身を見つめていたのではないか。
そこに、イエスがやってきたのだ。そしてペトロに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言う言葉をかけられたのである。
神の救いから最も遠いと思われていたこのガリラヤで、漁をするというペトロにとって最も誇れる部分に目を向けてくださった方がいた。しかもそれを、神の国の成就というすべての人の福音のために必要としてくれる、そんな人が現れたのである。
それこそが、ペトロ自身にとっての最大の福音に他ならなかった。だからこそペトロは二つ返事で、家業も何もかも捨てて、人生のすべてをイエスに委ねることを決めたのである。
福音とはその意味を「Good News(善き知らせ)」と説明される。ペトロにとってこのGood Newsは、ほかならぬイエス・キリスト、神様から直接もたらされた報せ──「God News」でもあったわけである。
ペトロは、漁師としての自分の誇れる部分が、神様の大きな働きのために必要だという福音を受け取って、弟子として招かれていった。しかしその後のペトロを弟子としてつなぎとめたのは、それだけが理由ではない。
弟子としてイエス・キリストと関わっていくことで、彼の人間味のある熱心な言葉や、時には手痛い失敗をしたり、逃げ出してしまう弱さが福音書には描かれていくことになる。
しかしそのすべてが、こうして福音書に書き残され、2000年の時を超えて福音書を読んだ信仰者一人一人に、慰めや励ましを与えたりしていったのだ。
これこそが、キリストがペトロを「人間を取る漁師」と呼んだ理由なのである。キリストはペトロ自身のすべてを神様の働きのために必要としていたのである。
そしてそれは、今キリストを信じようとし、キリストの弟子となっていく全ての人々にも言えることとして、聖書は私たちにこの物語を語っているのである。
あなたもまた、ペトロのように。聖書のことや、神様のことに、必ずしも詳しくなくてもいい。人より秀でたこと、得意なことがたくさんなくてもいいのだ。
ただキリストの言葉には私にとってどのような意味があるのか、私と神様との間には何があるのかと、聖書の言葉に聞き続けていく。そのような関わりを通して、神様は私たち自身に、また他の誰かに「善き知らせ(Good News)」を届けるために、私たち一人ひとりを弟子として招き、用いようとしてくださっているのである。
そのような「Good News」であり「God News」でもある福音を、私たちは聖書から受け取り続けていきたいのである。