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神があなたに望む、たった一つのこと


一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」

──マルコによる福音書1章21-27節

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キリストが会堂で聖書について教えている時「権威ある者としてお教えになった」と記されている。これはつまり、イエスが自分のことを、神に等しい存在=救い主メシアとして語ったということだ。
さらに、そこにいた「汚れた霊に取りつかれた男」から汚れた霊を追い出すという、いわゆる悪霊祓いの奇跡まで起こしている。
この箇所は一見すると「イエスは救い主メシアであることを示すために、神から委ねられた権威を言葉で表し、汚れた霊を追い出すというパフォーマンスで説得力を加えてみせた」ということを語っているように読めるかもしれない。

確かにこの出来事によって「イエスの評判はたちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。」と続けられている。しかしそれは、イエスがただ者ではない、神の力を委ねられたメシア/救い主であるということだけが話題になったわけではないのである。
この一連の出来事を、「汚れた霊に取りつかれた男」の目線で読み直してみると、また違ったメッセージが浮かび上がってくるのである。

汚れた霊に取りつかれた人は、福音書の中でたびたび登場している。その中には墓場に繋げられていた人や、泡を吹いて体の痙攣が収まらないという人もいた。
彼らに共通するのは、自分で自分をコントロールできない症状であるということ、そしてそれゆえに、ユダヤ社会から遠ざけられていた人々であった、ということである。
他にも、治療法がわからない体の病と同じように、彼らの多くは律法によって「汚れている」と判断されていた。
つまり、旧約聖書の律法を根拠にして、彼らは神様に正しく生きられなくなった存在として見なされ、隔離されたり、人々から遠ざけられていたのである。

今日の箇所でも、汚れた霊はキリストに向かって「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。」と叫んでいる。この「かまわないでくれ」と訳されている言葉は、原典のギリシャ語の文を直訳すると「私とあなたの間には何の関係もない」という意味の文である。
つまり、ここで汚れた霊にとりつかれた人は、汚れた霊によって、あらゆる関係性を奪い取られていたのである。律法によって人々との関係性が奪われ、彼に取りついた汚れた霊がイエスに「何の関係もない」と叫ぶことで、彼は神との関係さえも失いそうになっているのである。

このような彼の状況は、汚れた霊だけが原因ではなかった。
彼が汚れた霊に取りつかれ、自分でもどうしようもできない中で、人々との関係性が奪われていったのは、律法がそのように定めていたからであった。
そして律法とは人々にとって神から与えられた掟であり、神の言葉、神の考えそのものとして捉えられていた。
それゆえ、彼が汚れた霊によって人々との関係性を奪われる結果になったことは、神が定めたことであるのだから、私たちには救いようもない、と人々は神の御心(考え)を捉えていたのである。

そのような人々の考えをひっくり返したのが、イエス・キリストであった。

イエスはご自分が神に等しい権威を持っていることを人々に表したあと、彼から汚れた霊を追い出していった。それは、神の御心が、律法に記されている以上のものである、ということを示す出来事であったのだ。
では、それはどのような御心であったのか。
それは、汚れた霊に取りつかれながらも、イエスが語っている会堂に男がやってきた、という状況から読み取ることができる。

会堂でイエスはご自分を神に等しい者であるということを明らかにしていた。そして汚れた霊もイエスのことを「我々を滅ぼしに来た」存在だと見ている。汚れた霊の気持ちになって考えるなら、自分を滅ぼしに来た存在にわざわざ近付こうとはしないはずなのだ。

そのような汚れた霊に逆らうように、彼が会堂にいたキリストに近づいていった姿に、彼の声なき声──人と人との関係性、神と人との関係性の回復を求める切実な願いが響いていたのである。
そしてキリストは彼の声なき声、その願いを聞き届けることによって、律法を超えた神の本心を、示していったのだ。
それは「誰かとつながることの幸いを、誰にも失ってほしくない」という願いであったのだ。

このようにキリストが示した神の本心は、イエスの生涯の中で初めから最後まで貫かれている。
「人間を取る漁師にしよう(マルコ1:17)」という言葉で弟子となったペトロの働きは、実際には彼自身の姿を通じて「人と人、人と神とをつなげる」ための働きとされていった。
キリストが十字架にかかる最後の晩、弟子たちに教えられた唯一の掟も「私(神)があなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合なさい(ヨハネ13:34)」というものだった。これは、神と人、人と人とのつながりを最も良い形で保ち続けるための掟だと言えるだろう。
このようにキリストの姿を見返す時、その姿に現されている神様の御心は一貫している。神が私たちに望んでいるたった一つのこと──「人と人とのつながり、神と人とのつながりを善い形で保ってほしい」という、私たちへの神の祈りは、イエスの生涯を通して、ずっと響き続けているのである。

私たちは、たまには一人になりたいときもある。しかし、彼がそうであったように、社会から完全に切り離され、すべての人から見捨てられることを喜ぶ人はいないだろう。
私たちは他の誰かとのつながりがあるからこそ、それを通して、一人では得られない深い喜びが与えられたり、慰めを受けたり、悲しみが癒されることがある。それが私たちの心を幸せで満たしてくれるということは、揺るがない真実である。
そのような、私たちにとって心を育み、心を満たす関わりを保ち続けることを、誰よりも神があなたに望んでいるのだ。

あなたが笑顔であるように。
あなたが悲しみのなかにあるときには、それを受け止めてくれる誰かがいてくれるように。
あなたが苦しい時には、誰かが手を差し伸べてくれるように。

もしあなたが自分が一人ぼっちだと感じ、悲しみや苦しみの中に取り残されたかのように思う時には、今日のイエスの姿を思い出してほしい。
あなたに取りついた孤独や寂しさ、苦しみや悩みという名の汚れた霊を取り除き、あなたの幸せを願って祈り続けている神様が、いつもあなたの隣にいてくれていることを思い出してほしいのだ。