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戦わないで、戻っておいで


シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。

──マルコ福音書1章29-31節

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今日の箇所でイエスは、熱を出したシモンのしゅうとめに近づき、その手を取って起こされると、「熱は去り、」彼女は一同をもてなした、と聖書は語っている。
この「熱は去り」と訳されている言葉を聖書の原典で読んでみると、「熱は彼女を手放した」という表現になっていることがわかる。熱病にかかっているとすると、私達なら熱を追い払うことにばかり目が行きがちだが、「イエスは彼女から熱を追い払った」とは記されていないのである。

キリストはただ、シモンのしゅうとめの手を取られただけであった。そのイエスのまなざしは、彼女を苦しめている熱に向けられたのではなく、苦しんでいる彼女自身に向けられていた。そうすることで、熱は自ら彼女を「手放して」、キリストは彼女を神様の救いのうちに取り戻していった、ということがここには記されているのである。

先週登場した汚れた霊や、今回の熱病は、神様に対抗するこの世の悪として人々に捉えられていた。そして、人のうちにおいて神に従おうとしない心、神から人々を遠ざけようとする悪の最たるものを聖書は「罪」と呼んでいる。

しかしキリストもまたその悪(罪)に対抗し、それらと戦うことこそが救いの道であると、人々に教えたのではなかった。むしろ今日の箇所では、まるで悪(熱)を無視するかのように、キリストはただシモンのしゅうとめの手を取られ、神様との本来の関係性へと引き戻されたからである。

罪と戦うのではなく、神に立ち戻ること。このような考え方こそ、キリストが福音書において教えておられるすべての教えが、私たち信仰者にとって挫折にならないために、最も重要な基礎になるものといえるのではないだろうか。

神学生の時、ある信徒の方が「どうして牧師になろうと思うことができたんですか」と尋ねてこられた。ちょっと不思議な質問だなと思い、深く聞いてみると、どうやらその方はご自分の信仰の弱さについて悩んでおられたようだった。その方はこのように続けて言われた。

「パウロの手紙を読むと、その信仰の強さに到底かなわないなと思うんです。パウロが言う通り、わたしも神様に正しく生き、自分の罪(=神様の教えに反する自分の心)と戦い続けることは必要だと思っていますが、実際には到底出来ないと感じることばかりです。牧師を目指すということは、やはりパウロと同じように信仰も強くないと目指せないものなのかと聞いてみたくて……」と、すごく遠回しに質問されたことを明かしてくださった。

まさにクリスチャンの信仰生活、そのうちにある罪との戦いというのは、昔のCMで「24時間戦えますか」と言われていたような──24時間365日いつでも悔い改めの時をもって、いつも神様の教えに清く正しく愛に満ちているかどうかを確認し続けるような──そういう苦しく厳しい歩みであると捉えられがちかもしれない。
しかし、どれだけ悔い改めても、実際にはこの世の私たちのうちから罪が消え去るということはない。
それゆえ信仰者である私たちは、キリストの言葉を聞くたびに、悔い改めに導かれるたびに、「わたしは絶えず罪と戦わねばならない、それだけ信仰が強くなければ、クリスチャンとしてやっていけない」と、キリストに従って生きることの息苦しさと難しさを感じることもあるのではないだろうか。

しかしキリストは、キリストを信じている人々にそのような信仰の歩みを望んでおられたわけではないということを、今日の聖書の物語から聞きたいのだ。

キリストはその生涯の中で、人々の罪と真っ向から対抗し、それを人々のうちから消し去ろうとされただろうか。決してそうではなかった。むしろすべての人のうちに罪がある、ということを真摯に受け止めてくださったお方であった。罪を消し去るのではなく、罪から離れるための教えを語っていかれたお方であったからだ。
深い罪の中にあった律法学者たちにだって、彼らが頑なだからだからと言って救いから切り捨てるのではなく、繰り返し悔い改めを迫っていた。
そしてついには、すべての人の罪を代わりに背負うために、罪の象徴である十字架刑に対して一切抵抗することなく、キリストは十字架の死を受け入れてくださったお方であったのだ。

罪に対抗しても、私たちはこの地上の歩みにおいては、決して勝つことができない。いっとき悔い改めても、また何度でも罪に陥ることがある。そのような私たちの弱さをキリストはご存じであった。

だからこそ、キリストは私たちに罪に対抗するのではなく、そのような自分を受け入れるようにと、その生涯を通して人々に呼びかけてくださったのである。そして、私たちが自分の罪ある部分を肯定できるように、キリストの十字架の赦しを与えてくださったのである。十字架の赦しには、神様が「わたしたちを罪のない存在として見てくださる」という御心が示されているものであるからだ。キリストはそれを、私達に救いとして示されたのである。

頑張りすぎて疲れるくらいなら、神様のもとへ戻っておいで、と。

キリストがその赦しを与えることで私たちに教えておられる信仰者の生き方というのは、すべての罪を赦されている存在として私たちを見てくださる神様がいることに目を向け、それを信じ、私たちが喜びをもってそれに応えていくことである。

ペトロのしゅうとめが受けた病の癒しと、彼女がそれに応えて、「一同をもてなした」──他の人々に仕えるという愛の働きへと押し出されていったという今日の物語には、そのような神様の御心と、それを受けた信仰者としての応答の姿が表されている。

宗教改革者マルティン・ルターも、「私たちは全く罪人にして、同時に全く義人(神に正しい人)である」という言葉を残している。神様が見ておられる世界の理を、ルターはこのように捉え、言い表したのである。
クリスチャンである私たちは、神様の前において全く罪びとであるにも関わらず、同時に神様から赦されることで、全く御心に適った正しい者と見なされている。
その果てしない赦しと恵みを、私たちは信仰を通して受け取りたいと思う。そして、その喜びのゆえに、神様への応答として、罪のないものとしての歩みとはどのようなものなのかを、キリストの姿に見出していきたいのだ。

私たちをそのような歩みへと導くために、キリストは、シモンのしゅうとめにそうしたように、私たちの手を取ってくださっている。キリストを信じて歩む道は、自分の欠けと罪と戦い続ける苦しい道ではない。ありのままのわたしを神は受け入れてくださっているという喜びに立たされていくこと、そして神が望んでおられる愛に満ちた人との関わりを保つために、すすんで自らを小さなキリストのように整えていく道であるのだ。