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いつか必ずわかる日が来るから


六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

──マルコによる福音書9章2-7節

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キリストの生涯は大きく二つ、前半と後半に分けられるだろう。
前半はイエスが数々の奇跡を行い、キリストとしての栄光を示されることで、多くの人々がキリストに従った、という描写が多い。
しかしこの「山の上の変容」の出来事を境に、一気に雲行きが怪しくなる。
イエスは「わたしは十字架にかかって死に、三日後に復活する」と弟子たちに語り始め、エルサレムでは当時の社会的・宗教的権力階級であった律法学者たちに、厳しい悔い改めを迫っていくことで、対立を深めていく。
ついには彼らはイエスを殺す機会をうかがうようになり、無実の罪で十字架へと追いやられていくことになるのである。

弟子たちにとってもこの山の上の変容の出来事は、その時には理解が及ばない出来事であったに違いない。
「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていた」と聖書は語っているからだ。

ペトロはわからないなりに、目の前の状況を理解しようとしている。旧約聖書の二大人物であり、大昔に天に挙げられたはずのモーセとエリヤが、イエスと語り合っている。イエスは白く輝く衣をまとう姿に変貌する。しかもそれが、旧約の伝統では神と出会う場所だとされていた山の上で起こっている。これらのことから、ペトロはこれを、神が起こした出来事だと察していた。

だからこそ、ペトロも旧約の伝統に従って、「三つ仮小屋を建てましょう」と提案していく。
出エジプト記では、モーセ率いるユダヤ人(ヘブライ人)たちが約束の地イスラエル(パレスチナ)にたどり着くまで、神が共にいて、様々な天変地異をもってエジプトからの追っ手を退けたと言われている。人々は放浪生活の間、神を礼拝する時には神様が留まる「幕屋」と呼ばれる仮小屋を建てていたとある。
このことから、ペトロが何を考えていたかが伺えるだろう。ペトロは、モーセとエリヤ、そして救い主メシアの栄光に輝くイエス・キリストを見て、その栄光を山の上に留めようとしたのである。

この山の上を神様がおられる神殿として定め、ここに来れば神様に会える、困ったときには救われる場所として定めたかったのである。そうすることでペトロは、イエスが十字架にかかって死ぬなどという予告を否定したかったのであろう。
しかし、神の御心はそうではなかった。
「これはわたしの愛する子。これに聞け」という言葉だけを残し、あとには元の姿のイエスが残されていただけであった。

弟子たちはここで、「神が起こしたあの出来事には何の意味が込められていたのだろうか」という疑問を抱えながら、それが解決されないまま山を下りることになる。その疑問が解決するのは、キリストが十字架にかかり、復活して弟子たちの前に姿を現した時を待たなければならなかった。
なぜならここでキリストが真っ白に輝く衣をまとったということは、十字架の死を超えて復活の命を得るということの予告であったからだ。
まさに、イエスが十字架によって死ぬことに不安を抱えていた弟子たちに、先んじて神は「復活があるから、十字架の死はあなたがたを見捨てるということではない」と示しておられたのである。
ただ、それを弟子たちが理解するためには、キリストを信じることが出来ずに裏切ってしまうという歩みを経なければならなかったことを、聖書は描き出していくのである。

クリスチャンは、自分の人生は神様のご計画のうちにある、と信じている。自分の歩みは神様に導かれている、と。
しかしそう信じていても、私たちの人生にはいろんなことが起こる。どうしてこんなことが起こるのかと嘆きたくなるような不条理や、悲しい出来事、どうすればよいのか全く分からず途方に暮れる、そういう状況に陥ることだってある。
そのような中で、「いや、これも必要なこととして神様がお与えになっているのだろう」と殊勝に受け止められる人はほとんどいない。むしろそう考えるほどに、「なぜ神は」という気持ちがますます強くなることさえあるだろう。

だからこそ神は、輝くキリストを人間であるイエスに戻し、キリストに疑いを抱える弟子たちに、このように声をかけていかれたのである。

──「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

ここで神が、信じなさい、や従いなさい、ではなく「聞きなさい」という言葉を選ばれたところに、その御心が示されている。
つまり、信仰者の歩みのうちに起こるあらゆることから目をそらし、盲目に神を信じることを、神は求めておられるのではない。
神を信じきれずに、「どうしてこんなことが起こるのだ」という疑問や信仰の揺らぎを抱える私たちに、神はそれでもよいと言ってくださるのである。
むしろそうして疑問を抱えながら、この時のペトロのように自分の考えから答えを捻り出すのではなく「キリストの言葉に聞き続けていく」ことこそ、クリスチャンの歩みであると、ここで聖書は語っているのである。

弟子たちもまたこの言葉があったからこそ、疑問を抱え、キリストへの誤解と不安の中にあり、ついには十字架を前にして裏切ってなお、キリストの言葉に聞き続けていった。
キリストが十字架にかかってなお、弟子たちが集まって祈っていたことからも、彼らがキリストを信じることをあきらめたわけではなかったことが示されている。
そのような彼らに、復活のキリストは現れ、あの時の意味を明らかにしてくださったのである。彼らが抱え続けてきた疑問が、一層信仰を強くする救いの福音に変わった瞬間だったと言えるだろう。

神が目指していたのは、人間イエスを通して示した目の前の幾人かを救うだけの救いではなかった。
全世界の人々を救い出すために、すべての人と人、神と人との関係性が良き関わりを取り戻す──「わたしがあなたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)」という関係性が、世界すべての人の掟として響き渡るために、神はイエスを十字架にかけ、復活させなければならなかったのだと聖書は語るのである。

私たちの目の前には、どうしても受け止めきれない不条理や、つらい出来事が起こるかもしれない。ましてや誰かがそれを「神様のご計画なんだよ」と簡単に決めつけることなど、最も神が望まれないことだ。
それでも、なぜあの時私はあの経験をしなければならなかったのか。そこに何が起き、何を体験し、何を教えられ、今の自分の中でどのような意味を持つことになったのか、その問いを抱えながら歩んでいく日々に、神は私たちを送り出している。
そしてそのような日々を共に歩んでくださるために、イエスは輝く山の上にしかいない救い主ではなく、あなたの隣を歩むイエスとして、戻ってきてくださったのである。

私たちが神に対して抱えるすべての問いには、必ずいつか答えを与えられる時がある。それは、わたしたち一人一人を愛し、救うために、自分の御子でさえ十字架にかけることを決断した神による約束なのだ。
私たちにとって答えが与えられるその時まで、私たちは神の呼びかけを何度でも思い起こしたい。
「これはわたしの愛する子。これに聞け。」──あなたもわたしの愛する子どもだ。キリストの言葉を聞き続けてほしい、と。