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「無関心」を禁止する


“ある言葉の一般的な使用を永久に禁止できるとしたら、それはどの言葉ですか ? なぜですか ?”

多分こういう問いを投げかけられて、ほとんどの人にとって一番最初に出てくるのは否定的な言葉だと思う。なぜなら否定的な言葉を投げかけられて気持ちのいい人はどこにもいないからだ(そういう人がいることは否定しないが、あくまで限定的な場においてのみだろう)。

でもきっと、否定の言葉をいくつ消し去ったとしても、人が人を傷つけることはなくならないし、平和に近づいたとしても平和にはならないだろう。

言葉というのは人と人とがコミュニケーションをとるためのつたない道具だ。私たちは何千年もそれを使い続けてきた。誰もが平和を望みながら、それがかなわないのはなぜだろうかと思う。それはきっと、形では平和を望みながらも、その思いが自分にしか向いていないからではないかなと思う。
つまり、相手のための平和ではなく、自分たちの平和がなされればそれでいい、という思いがどこかにあるから、お互い(あるいはすべての人)にとっての平和がもたらされない。自分たちのための言葉しか出てこないからこそ、自分たちのための平和しか勝ち取れない。平和を奪われるものは抑圧され、再び平和を奪いにやってくることになる。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。 わたしは敵対させるために来たからである。(マタイ10:34-35)」とイエスは言った。
まことの平和をもたらすための教えを語ったイエスが、それとは真逆のことを言っている。

イエスはきっとよくわかっていたのかもしれない。これだけ平和から遠ざかったこの世に本当の平和がもたらされるためには、「平和をもたらすためにはいったい何が必要なのか」をちゃんと語り合うことが必要なのだと。
ぶつかりあわずに我慢しあってもたらされた平和は長く続かない。たとえぶつかり合っても最終的に和解することが、本当に長く続く平和をもたらすのだと、イエスは考えていたからこそ、このような一見矛盾した言葉を語ったのだ。

だから、もしこの世界からなくしたい言葉があるとしたら、「無関心」だ。

無関心によって避けられている争いもたくさんあると思う。しかしそれは大小なりとも不満と抑圧を生んで、のちの大きな争いの火種になるものだ。
だからイエス・キリストが求めた争いとは、ただ傷つけあい、ただ意見をぶつけ合うためのものではない。お互いに平和でいたいという思いを分かち合い、それに向かって必要な意見交換をするために、相手に対する「無関心」を取り除くことだ。

私たちがそうするとき、自分がどれだけの争いを避けようとしてきたか、どれだけ私たちが自分の気持ちにフタをして、言いたい言葉を飲み込んできたのかがわかるだろう。自分の思いを優先して、相手の気持ちを慮ることのない言葉が溢れていたことに気付くだろう。私たちは自分のそのような姿をちゃんと見つめなければならないし、私たちが本当に望んでいる平和に満ちた関係性をお互いに求め合うことが出来るように、相手の思いに関心を向けることを学ぶことになる。

それはきっと、もっと世界を善くしていく第一歩につながるはずだ。最後に、マザー・テレサが言ったとされる言葉を改めて思い起こしたい。

「愛の反対は憎しみではなく、無関心です。」