それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
──マルコによる福音書8:31-34
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今日の福音書の箇所では、キリストが弟子たちの前で十字架の死と復活について初めて明かされた時のことが読まれています。
今日の箇所の直前を見てみますと、そこにはイエスとは何者かという問いに対して、ペトロが「あなたは、メシアです」と告白をする場面が置かれています。ペトロにとって、弟子の中で最も長くイエスと共に歩んできた者として、この信仰告白ができたことは誇りに思ったでしょうし、自分がイエスのことを一番理解できているんだという自信にもなったことだと思います。
しかし、その自信はキリストが続けて話し始められた十字架の予告によって、すぐに打ち砕かれることになったのです。
「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。」
この「はっきりと」という言葉には、「公然と」「強調して」という意味のギリシャ語が使われています。ご自分はメシアである、ということをペトロの信仰告白によって暗に明らかにされた時には「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」にも関わらず、十字架の死の予告については、隠すことなく公然と話されたのです。
このようなキリストの言葉に反応して、ペトロがイエスを「いさめ始めた」と聖書は語ります。ここで使われている言葉は実際には「いさめる」という訳よりも「叱責する」と表現するほうが元の位置に近い言葉が使われています。
弟子が自分の先生に向かって、立場も忘れて厳しく叱責する、ということ自体がとんでもないことですが、ここには弟子たちがメシアをどのように捉えていたのか、ということが理由にあるのです。
ペトロをはじめとした弟子たちがイエスに見ていたメシア像とは、イスラエルをローマ帝国の支配から解放し、イスラエル王国を再び独立させる軍事的な救い主でありました。
もしそうであるなら、メシアであるということは公然と話すべきだし、十字架にかけられて死んでしまうことのほうが「限られた近しい人々以外には誰にも話さないように」と戒めるべき内容ではないか。そうペトロたちは思わずにはいられなかったことでしょう。
キリストはこのような弟子たちの考えを見抜いていました。だからこそ、ペトロを含めた弟子たちに、「もしわたしが軍事的なメシアであったのなら、あなたがたのいのちは本当に救われるのか」という視点から、言葉を返していかれたのです。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」
軍事的な王がイスラエルに君臨したとしても、それは人と人とが戦いあうこと、傷つけあうことでしか得られない救いではないかとイエスは言い返されたのです。その結果、いっときの独立を勝ち取ったとして、また侵略され、ユダヤ民族が以前にもましてバラバラにされるかもしれない不安は付きまとうものです。そのような一時の平和、一時の救いのために、神様は救い主メシアをお遣わしになったのではないのだと、キリストは厳しく弟子たちを戒められたのです。
今週の金曜日、3月1日には、世界祈祷日礼拝が予定されています。この世界祈祷日というのは「知ることから祈りへ、祈りから行動へ」ということを基本とした超教派の礼拝です。毎年の式文の最後には、祈りに覚える国がどのような歴史を歩み、宗教や文化などを持っているのかということを知ることができる資料がついています。
今年祈りに覚える国は、未だ戦火のさなかにある、パレスチナです。
その歴史を振り返ると、このように書いてあります。「国際連合が1947年にパレスチナ分割を決議し、国連総会において決議が採択されました。パレスチナとイスラエルという二つの独立した国家の創設とエルサレム市に特別な国際的地位を与えるものになりました。国連は2つの国家を決議したものの、今日に至るまでパレスチナに自治権はありません。」
このパレスチナとイスラエルという二つの国家が、今現在も凄惨な戦いを続けています。そしてこの土地は、紀元前からイエスの時代にかけても、アッシリアやバビロニアをはじめとした様々な国からの侵略を受け続けてきた土地でもあったのです。
そのような中で、人にとって最も救いとなることとは何か。それは弟子たちが望んだような、国家を打ち立て、他国に負けない武力を持ち、戦い続けて国を守っていくこと、それを率いる力強いリーダーがいることが、本当の救いではないことを、神様は2000年前から見抜いておられたのです。この世に生きる、何の力も持っていない一人の人間のいのちが無為に失われないようにする、ということこそが変わることのない神様の御心であり、すべての人にとっての救いであるのだとキリストはここで言われたのです。
そのような救いに与るために、キリストはこのように教えられます。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
このみ言葉における、わたしたちの十字架とはいったいどのようなものかを考えるとき、キリストが他の箇所で語られた「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい(ルカ6:31)」というみ言葉が助けになると思います。
もし私たちが、これを文字通りに受け取ってそのまま実践しようとすると、絶対にうまくいきません。自分がしてもらってうれしいことが、必ずしも相手にとってうれしいこととは限らないからです。
ですから、このみ言葉を行おうとするときには、まず相手と自分は違う考え方、感じ方、価値観を持っていることを思い起こすことから始めなければなりません。
そうしなければ今日のペトロのように、弟子たちが捉えているメシアの救いと、人々にとって本当に必要なキリストの救いとが、すれ違ってしまうからです。
相手の現状と心に深く寄り添い、そのうえでその人にとって最も必要なものを分かち合っていく。そうすることによって、与えるという本来一方的な行為が、お互いにとっての喜びに繋がることを教えるみ言葉であるからです。
ですから、そのように教えられたキリストがここで言っておられる「自分を捨て」という言葉は、直訳すると「自分との関係を失わせ」という言葉になります。つまり、自分自身との関係、自分の内側、価値観や考え方にばかり目を向けるのではなく、常に自分の外、関わる相手に目を向けるということです。そのうえで自分の十字架を背負っていくこと──自分の罪に常に目を向けながら隣人と関わっていくことこそ、キリストを信じて従っていく道である、と言われるのです。
それこそが、顕現の時から徹頭徹尾キリストの歩みに示された神様の御心、「人と人との関係性を良い形で取り戻していく」ことへとつながる歩みなのです。
相手を知り、相手に寄り添い、相手を中心において関わっていくということの難しさは、誰にとっても大変なことです。そのように感じる時、私はある時に聞いた、このようなたとえ話を思い出します。
ある人が神様に弱音を吐いています。「神様もう無理です、自分の十字架は重すぎて背負ってられません」すると神様は「よろしい、あなたの十字架を下ろしてよい」と言われます。彼はホッとしてその十字架を降ろすことが出来ましたが、神様は続けて彼に言われます。「ここに十字架が並んでいる。大きいものも小さいものもあるが、ここからあなたが選んだ十字架を再び背負わなければならない」と言われるのです。彼は十字架を見渡して一番小さいものを背負うと、神様は言われました。「それはあなたが先ほど降ろした十字架だ」と。
確かに私たちが担ぐべき十字架を、その罪を見返すと、大変大きく、気を付けようと思っても逃れられないもののように感じるかもしれません。しかしこの話は、私たちが自ら担ぐべき罪が、私たちにとって”ふさわしい”重さである、ということを教えてくれると思います。
その重さを知ってこそ、私たちはその十字架を共に担ってくださっているキリストの愛に気付かされるのだと思います。
私たちの罪を、十字架の死によって代わりに償ってくださり、復活によって、キリストは今を生きる私たちの罪をも、その十字架をも、共に担ってくださっているのです。そのような関わりを通して、キリストは私たちに、いつも悔い改めの機会を与えてくださるお方としておられるのです。
このように、キリストの十字架に示された私たち一人ひとりへの神様の愛に支えられながら、「自分を捨て、自分の十字架を背負って歩む」悔い改めの日々を、私たちも歩みだしてまいりたいと思います。