今日のデイリープロンプトはすごくシンプルに感じる。でも答えるのはちょっと難しい。というのは、牧師という仕事は仕事であると同時に趣味というか、ライフワークを兼ねているから。
牧師としての仕事は楽しいことばかりじゃない。
仕事として聖書の言葉からメッセージを作るのは毎週しんどい作業だし、日曜日ギリギリまでひっぱることも多い。毎日駆け込み乗車をしているような焦りがある。
でも、ある尊敬する牧師が「今週が人生最後の礼拝になるかもしれない人がいるんだ」と言っていた言葉を毎週思い出す。そう、日曜日に教会に来て挨拶をして、聖書の言葉を聞いて帰っていって、次に会ったときには天に召されていた人もいた。自分が語った最後のメッセージが、そのひとにとって本当に最後にふさわしいメッセージだっただろうかと思うと、いっそう毎週のメッセージをギリギリまで整えなければという気持ちになる。教会員の多くが高齢であるからなおさらだ。
だから、そういう気持ちを「楽しい」とは決して言えない部分がある。
でも、仕事の中でも仕事以外でも、聖書の話をするのは好きだし、楽しい。
イエス・キリストという人は神様ご自身だとキリスト教会は信じているし、僕もそう思う。でも、その神様ご自身が人間としてこの世に来てくださった、という理由の一つが「わたしたちの友となる」というものだった。
もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。(ヨハネ福音書15:15)
神様が友達だなんて、これほど力強いことはない。神様だって傷つくし、悲しむし、喜ぶし、私たちのために祈り願うことがある。そのような関わりをしてくれる一番近しい友人として、イエス・キリストというお方を僕は感じている。
だから、聖書の言葉を読み解こうとするとき──特にそれが福音書でイエス・キリストが対話をしている場面では──そこで僕は隣にいるイエスに聞きながら読み解こうとする。この時あなたはなんでこんなことを言ったの?何を考えてたの?何が問題で、誰が困っていたのかな。あなたはどうしたかった?みんなにどうなってほしかった?
聖書の言葉は2000年も前の、日本から遠い国の、文化も主たる宗教も価値観も違う場所で語られた言葉だ。でも、その文脈を少しずつ読み取って聞こうとするとき、そこに現れてくるのは、今も変わらず起こり得る問題ばかりだ。僕たちはおんなじことに悩み、迷い、苦しんでいる。だからこそ、2000年前に生きて、十字架で死んで復活したことによって示そうとされたイエス・キリストの救いというのは、その時代、その場所だけのものではなく、時間と場所を超えて今ここに響く神様の呼びかけになる。
これはとても不思議なことだ。そして、それを実感をもって聞くとき、イエスと一緒に聖書を読むことは「楽しい」。
多分僕にとってキリスト教や聖書を読み解くことは、ライフワークみたいな部分がある。趣味というとちょっと軽い響きになってしまう(友人と話すのが趣味、とはあまり表現されないだろうし)。なんにせよ、それが仕事にも用いられるライフワークであるということは良いことなのかもしれない。
自分が好きなことを仕事にすると、その好きなことが嫌いなことになってしまったとき、どこにも逃げられないよ、と言われたことがある。でも、それはちょっと違うんじゃないかなと思う。好きだと思うものを、嫌いだと思う時だってあるし、その逆もある。嫌いだと思う気持ちを持ちながらも、同時にそれを好きでいることだってできるんじゃないか。さながら僕にとっての聖書を読み解く仕事みたいに。しんどいこともあるし、同時にたのしいものでもある。
縁あって僕は牧師をしているけれど、多分この「イエスと一緒に聖書を読む」ということは、どんな仕事をしていてもできることだと思う。多分好きなことを仕事にするのはやめたほうがいいと言っていたその人は、そういうことを言いたかったのかもしれない。
牧師になりたいと言った時、「牧師はもうからないし、出世だってない、ほめられることもほとんどないし、贅沢もできないよ。それでもいいのか」と言われたこともある。でも、今は別にそんなに困っていない。確かにもうからないし、出世もないし、贅沢三昧というわけにはいかない。でも、イエスが2000年前に語った言葉を少しでも理解しようするとき、僕の隣にいるイエスがそっと語り掛けてくる気がする。
「わたしのことをわかろうとしてくれて、ありがとう」。
友からの言葉としては、最大の賛辞なんじゃないかなと思う。