kyrie.

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運命かどうかは最期にわかる


“運命や宿命を信じますか ?”

運命や宿命って改めて言われると、なんとなくでしかイメージできなかったのでざっくり調べてみた。
「命に宿るもの」と書くので、ニュアンスとしては「生まれたときから定まって変わらないもの」という意味として取るのがいいのかもしれない。

多分ここで聞いているのは、人間どのような生き方をしても大まかな結果は変わらず、だいたい定められた道をたどってその生涯を終える、みたいな意味での運命のことだろう。
個人的には、きっとだいたいのことはそうなんじゃないかな、と思っている。ただ、生まれたときに歩む道がすべて決まっていて、そこから抜け出すことはできない、という意味では運命というものの存在を否定をしたい。どうあがいても僕らの人生は初めに定められた形でしか進まない、という点についてだけ、そうではないんじゃないかと思っているのだ。

僕らの人生というのは自由なものだ。いつどこで人生を180度転換させても誰からも文句は言われる筋合いはないし、誰にでもそう出来る自由が与えられている。こういう捉え方をしている時点で、「運命や宿命」はその初めには定められていないことになる。
でも、自由に選択をし、思いもかけぬ出会いと経験を重ね、自分という人生の生涯を歩んでいった結論として「ああ、振り返ってみれば全部神様が用意された道を歩んできたのだな」と、僕は人生の最期には思うのではないかな、と思っているのだ。そういうものとして、僕は人生というものを見ている気がする。

運命とか宿命という言葉は、人生の歩みの中で、逃れたいけど決して逃れられないものにぶち当たった時に出てくる言葉なのかもしれない。逃れられないからこそ、そういう言葉で自分を納得させようとするのかもしれない。「これは自分が生まれた時から決まっていたものだ、だからきっと自分に必要なものとして、乗り越えられるものとして存在しているはずだ」──でも、そういうものほど、どこかに逃げ道はあるものだし、立ち向かうことが必ずしも正解ではないものだってある。

僕たちの人生は自由だ。神様は自由を与えてくれた。神様が私たちを愛する子として見るとき、神様から見れば全くの間違い(罪)にも見える歩みを僕らが選んだとしても、その自由を尊重してくれる。

ある危機的な状況に陥った人のたとえ話を思い出す。
ある人が台風による洪水に巻き込まれ、木の上によじ登ってなんとか逃げている。しかしその木もいつ折れてしまうかわからない。彼は神に祈る。「あなたを信じる、だから助けてくれ!」神からの返答はない。
そこに、船に乗った人がやってきて、木から降りろと言う。彼は「いや、また大きな波がやってきて船が沈むかもしれない。きっと神が助けてくれるはずだ」とそれを断った。
次に、ヘリコプターがやってきて、彼に乗るようにと手を差し伸べる。彼は「いや、突風が吹いてヘリコプターも墜落するかもしれない。きっと神が助けてくれるはずだ。」とそれを断った。
ミシミシと音が鳴って、木が折れ、彼は濁流にのみ込まれて意識を失った。気付くと神様が彼の前に立っている。彼は神に言った。「あなたのことを信じて助けを求めていたのに、なぜ助けてくれなかったんですか?」神は答える。「あなたの祈りは聞こえていた。だから、何度もあなたに助けを差し向けたではないか」。

私たちには、神をどのようなお方なのかということを捉える自由がある。しかし、神様がせっかく私たちを助けようとしても、その自由のゆえに、神様の助けを退けてしまうことだってある。
この物語が教える教訓は、「それが神の働きかどうか(運命かどうか)を判断するのはその時の自分ではない」ということだ。危機的状況に陥っていて、それを助けてくれる人がいるなら手を取ればよいし、何らかの信念があって取らなくてもいい。その自由は僕らに委ねられている。しかしその結果が果たして自分にとって良いものになるかどうかは、過ぎ去って、振り返ってみないとわからない。彼が懸念していた通り、船は沈没し、ヘリコプターは墜落したかもしれない。

だから、運命や宿命だなんて言葉で目の前の状況を固定化してしまわないで、今この時を自由に生きよう。定められていたことかなんて、後から振り返ってみなければわからない。かつての自分の選択が間違いだったと思うなら、それを正解にする道をこれから歩めばいい。神様はそのような僕らの歩みをずっと見守り、その時々に必要な気付きを与えてくれる。少なくとも僕はそう信じている。

そういう歩みが最後まで保たれたなら、きっと「自分は自分の思うように生きたけれど、振り返ってみたら全部神様の計画通りだったね」ということになるだろうし、仮にそれが僕の運命だったと表現されるのなら、これほど幸せな運命はないだろう。