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神様の正しさはどこにある


イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

──マタイによる福音書12章46-50節

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私たちはこの箇所を読んで、「イエスには肉親の情がないのだろうか」と思うでしょうか。
「キリストは神の御心のためなら血縁関係さえも切ってしまうことを求められるお方だ」、と受け取るべきでしょうか。
キリストはそういう意図でこの言葉を語られたのではありません。
神様の御心を行う人を「わたしの家族である」と呼ぶことは、決して血縁関係にある家族を否定することと同じ意味ではないからです。

私たちは裁きたがる罪を抱えています。
なんでも誰かを悪者にしたがる。そうして自分がなすべき正義を確かめようとする。
ここでキリストが否定しようとしているのは、肉親による家族関係ではありません。
肉親であるからこそ陥りやすい「家族なんだから、自分たちの言うことには従ってくれるだろう」という心に対してなのです。
もっと突き詰めて言えば、「自分の中で判断した正しさを相手に押し付けてしまう」という罪に対して、キリストは対抗しているのです。

この箇所の直前を見ますと、なぜ家族がイエスの元にやってきたかがわかります。
それは、ファリサイ派の人々が「彼(イエス)は汚れた霊に取りつかれている」「サタンの頭ベルゼブルの力を使って悪霊を追い出している」とうわさしていたからです。これに対して反論していった話が「ベルゼブル論争」と呼ばれているものですが、マルコもこのベルゼブル論争がきっかけで、イエスの家族がイエスを諫めようとやってくる、という流れになっているんです。

ルカは違いますが、その前に置かれている物語はどれも、人間では成しえない奇跡を起こしまくっている話が並んでいます。
病の癒し、死んだ子どもを生き返らせ、罪深い女の罪を赦すという、神様にしかできない数々の振る舞いに、人々はイエスを「この人は何者なのだろうか」と疑問を持つという箇所の後に、家族がやってくる。
ですから、どの福音書においても、イエスの家族がやってきた理由というのは、「これ以上目立つな、変なことをするな」という抑止のためであったことがわかります。

でも変じゃないですか。そこで悪霊に悩まされている人、息子が死んで悲しんでいる人、深い罪のゆえに命を奪われそうになっている人を、キリストは救ったんです。助かっている人がいて、たくさんの人がイエスをしたってやってきている。
それをわざわざ止めようとしているということは、「イエスによって誰かが助かっている、喜んでいる」ことよりも優先すべきものがあると、家族は思っていたということです。
家族にとってはこれまで普通の人間であったはずのイエスが、突然神の子を自称し始めて奇跡を起こし始める。
それを見てファリサイ派の人々はイエスを「悪霊に取りつかれている」という。
家族としては、イエスかファリサイ派の先生か、どちらを信じるかという瀬戸際に立たされたということです。

母と兄弟とありますから、多分兄弟同士で話し合って、「やっぱりイエス変だよね、高名なファリサイ派の先生方もそう言ってるし、これ以上変な噂が立つと困るよね」って、自分たちが間違った判断をしていないか一応確かめ合って、多分母親の言葉なら聞くだろうと母マリアも巻き込んでやってきた。そういう情景が思い浮かぶんじゃないでしょうか。
ですからキリストは言わざるを得なかったんです。「家族だからって自分の考えだけで相手を従わせようとするのは神様の御心に反している、そんなの神様の御心に適った家族関係じゃない」って。

私たちはどこに基準を置いて正しいか正しくないかを判断しなければならないかということは、すごく難しいことだと思います。
それを神様に置くことを聖書は教えますが、じゃあ神様の基準ってどんな基準なのかを知らないと、判断しようがないじゃない、という話になっちゃいますよね。

アインシュタインはこのように言いました。「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである」。
つまり、人はたった10年20年のあいだに体験したことを基準にして、いろんな物事を判断する傾向があるということです。
ですから、自分が常識だ、これが正しい、と思っていることは、実はいつでも問い直されなければならないものであることを忘れてはならないのだと思います。

そういう中で、神様の御心、神様の正しさってどこにあるのか。
その柱って何だろうと考えた時、それは一言で言えば「愛」だと私は捉えています。
漠然としているのでもう少し狭めて表現するなら「誰かが嫌だと感じることを出来る限り避け、出来るだけ多くの人がうれしいと思うことを選ぶ」ということです。
徹底的に相手を中心に置くことで、自分の気持ちや判断を出来る限り遠ざける、ということでもあると思います。

自分が必要だと思うから、自分が大事だと思うから、それを中心に考えようとすると、私たちはいつのまにか、自分勝手になってしまうんです。
そして、これは誰しも自分ではどうしようもできないことなんです。それが罪というものだからです。
だから、それを回避するためには、徹底的に自分の正しさというのを偏見だと思っておく。
何歳になったって、いつでも問い直されるべきものだと自覚しておくこと。そのうえで、自分以外の人々の幸せの最大公約数を選び取っていく、ということが、その道の第一歩になるのだと思います。

ここでキリストが「天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母(つまり家族)である」と言い切ったのは、親と子、家族関係というのが、本来人間関係の中で最も自分以外の人のために、という思いを抱いて関わることを連想しやすい関係であるからです。

子どもに対して親は、自分のことよりも子どものことを優先して、子どもにとって何が一番いいのかを考えて、それに全力を尽くそうとするものだと思います。
それが愛というものだからです。でも、それが歪んでいってしまう時というのは、いつだって子ども主体、相手主体ではない、親主体、自分主体の思いのほうが優先されてしまうときではないでしょうか。
良かれと思って、何でも知っている親のほうが必ず正しいと勘違いをしてしまう。
その思いを生み出す根っこにあるのが、「罪」──誰かの上に立ちたい、誰かの神様になって相手を支配したいと思う気持ちです。
その罪が、私たちを「愛」から、神様の御心から遠ざけてしまうのです。

キリストが「天の父の御心を行う人が、わたしの家族である」と言われたのは、目の前にいた、キリストによって救われた人々が神様の家族に迎えられている喜びに満たされるように、というだけではありません。
むしろイエスの家族に対しても、その罪を悔い改めて、本当に神様が望んでいる家族関係のうちに帰ってきてほしいという呼びかけでもあったと思います。
自分のことを子どものころから知っている家族だからこそ、自分のことを理解してほしいと思うのは当然のことだからです。
そうやって、全ての人を、喜びと愛に満ちた家族関係に迎え入れようとされている。その愛を全ての人と分かち合うことのできる神様の正しさに私たちも立ち続けることが出来るように、悔い改めながら生きていきたいものだと思います。