イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
──マルコによる福音書15章25-39節
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本日の礼拝は、キリストのご受難をおぼえる日となります。
そして、教会の暦では本日から受難週──キリストが十字架へと過ごされた生前最後の日々を覚える一週間とされています。
福音書の中には、イエス・キリストの様々な奇跡や悪霊祓い、当時の人々の考えが逆転させられるような教えが語られています。
しかし、四つの福音書全てが取り上げている記事というのは、そう多くありません。
その中で最も外してはならない物語こそが、この十字架の出来事でありました。
キリストは祭司長や律法学者たちによって「ユダヤ人の王を自称した」という罪をでっち上げられ、十字架へとかけられていきました。
これまでに何度も人々を救い、神様に委ねられた力をもって人々に神様の御心を示してこられたはずのイエスに、人々は十字架という極刑を求めたという、最も信じがたい出来事をもって、キリストの地上の生涯は幕を閉じることになったのです。
そして、一度死んだイエスが復活し、裏切ったはずの弟子たちの前に姿を現されるという復活の出来事によって、その十字架とは「すべての人の罪をキリストが代わりに償い、赦すための十字架だった」という御心が明らかにされていく──それが、この十字架の出来事が示す福音であったと、聖書は私たちに教えているのです。
しかし、私たちがイエス・キリストにだけ目を向けていると、イエスの十字架というのは、そこで償われていった私たちの罪を明るみに出すための出来事のように聞こえてまいります。
十字架が罪を赦すものであった、という福音が弟子たちの前に示されるのは、キリストが復活して、裏切りの弟子たちの間に立ち、「あなたがたに平和があるように(ヨハネ20:19/ルカ24:36)」と言ってくださったその時まで待たなければならなければなりません。
ですから私は昔から、この復活のイエスの物語が大好きでしたし、それゆえに、十字架のイエスの出来事、自分の罪を目の前に突き付けられるようなこの物語を、あまり深く読むことは気が進みませんでした。
しかし改めてこの十字架の出来事を、御子イエス・キリストではなく父なる神様のほうに視点を向けることによって、この物語はがらりと私の中で姿を変えて見えてくるのです。
実はこの十字架の時点において、神様は私たちに対する大いなる赦しと、復活のイエスが私たちにもたらしてくださる福音を、先んじて伝えようとしてくださっているのです。
キリストは目を背けたくなるような苦しみを人々から受けられています。
物理的に痛めつけられ、侮辱され、重い十字架を担がされ、そして十字架にかけられた後も、ひどい言葉をかけられています。
十字架にかけられたキリストは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という詩編の言葉を大声で叫んで祈っています。しかし、それでも神様は全くの沈黙のままなのです。
そしてついに、イエスが息を引き取られたとき、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。(15:38)」と聖書は語るのです。
この垂れ幕が真っ二つに裂けるという出来事を、小さいころの私は「子を傷つけられた父なる神様の怒りと悲しみを表した表現だ」と捉えていました。
全人類の救いのためとはいえ、無実である自分の子どもをこれだけ一方的に痛めつけられて親である神様が黙っているはずがない、と。
だからこそその後すぐ、イエスから最も遠いはずの人物、敵国ローマの百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言っているように、神殿の垂れ幕が裂けるという超常現象は、そのような異邦人にもわかるような神様の起こされた出来事だったということを表しているのだろうなと思っていたのです。
そうして牧師になってからも、この箇所には目を向けずに、キリストの十字架ばかりを深めようとしていました。
しかし実は、この「神殿の垂れ幕」とは、神殿の中でも祭司の中でも限られた人々しか入ることのできない場所──神様がとどまっておられる至聖所という場所──と、私たち人間の生きている俗なる場所とを区切る、境目のような役割を果たしていた垂れ幕であったのです。
ですからこの垂れ幕が真っ二つに裂かれた、ということは、人間が生きている場所と神様がおられる場所との境界線を、神様のほうから取り除いてくださったという出来事だったのです。
振り返れば、聖書にはもう一つ、「人と神との間を隔てるものが裂かれた」出来事が記されています。
それは、イエスが洗礼を受けられたときのことです。イエスがヨハネから洗礼を受けられた時、「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来る(マルコ1:10)」という出来事が起こっていました。
あの時に神様は、人と神様とを隔てている天を裂き、イエスに降った聖霊として、人間の生きる世界に介入してくださったのです。
そして先週の箇所ではこのように天の声は響いていました。「私は既に栄光を表した。再び栄光を表そう。」
この栄光とは、キリストの十字架の出来事を表した言葉でした。
そしてあの無残なキリストの十字架がなぜ、どのような栄光であったのかということを考えるための足掛かりとして、神様は先んじてこのように語ってくださったのです。
そしてこの再び表された栄光とは何であったのかが、今日の箇所にはまさに記されているのです。
イエス・キリストが十字架の死に至った時、つまり人々の罪が代わりに償われ、神様の前にすべての人の罪が赦されたとき、ふたたび神様は、人間の生きる世界へ直接介入するという決断されたのです。
そしてその現れこそが、垂れ幕が裂けた直後に起きた出来事、「神様に悔い改めることから最も遠い存在であったはずのローマの百人隊長が、イエスを『神の子だった』と信仰告白する」という栄光に満ちた出来事だったのです。
ローマの百人隊長は、誰よりも近く、十字架のキリストのそばに立って、キリストに向き合っていました。
この人はいったい何者なのだろう、無実の罪によって十字架にかけられていくというのに、なぜこの人は自分が十字架にかけられることを良しとしたのだろう。自分を傷つけるものを罪に定めるのではなく、その罪を祈りによってとりなし、最後まで神への祈りを貫いたこの人はいったい何者だったのだろう──。
百人隊長の心中には、そのような思いがあったかもしれません。
しかしそこに答えを与えたのは、ほかならぬ神様であったのです。
旧約聖書の時代に自ら定めた至聖所という場所から、そこに生きる一人一人の人のそばに立って向き合うために、垂れ幕を裂き、百人隊長の前に立ってくださったのです。
だからこそ、百人隊長は十字架で無残に死に至ったイエスを「本当に、この人は神の子だった」と告白することが出来たのです。
神様が私たちと共にいてくださる、ということは、今やキリスト教にとって定型文のような、当たり前の表現かもしれません。
しかし本当は、この十字架の出来事に示されているように、神様の側からの、大きな決断と寄り添いによって起こった、神様の栄光と愛の表れであるのです。
本来罪深い私たちが到底近づくこともできない場所におられる神様が、むしろ神様ご自身のほうから、私たちに近づいてくださる。
そばに立って、向き合ってくださっている。
私たちが神様に向き合い、神様を見ようとするとき、神様もまた、天と地の境を裂き、至聖所の内と外を隔てていた垂れ幕を真っ二つに取り除き、私たちに向き合って、私たちを見つめてくださっているのです。
だからこそ私たちはそこに、計り知れない神様の御心とご計画、その栄光の福音を、ほんの少しだけ垣間見るという体験を与えられていくのです。
それは百人隊長が十字架のイエスを神の子だったと告白したように。私たちが様々な日々の出来事に神様の働きを見出し、喜びを与えられていくように。その時確かに神様は、私たちと共にあって、そばに立って、あなたを見ているのです。
神様が私たちと共にいてくださる。
そのために、イエス・キリストは、十字架の苦難を引き受けてくださいました。
私たちはこれからも、この十字架を仰ぎ見るときに、そのことを思い起こしたいと思います。
神様が、今日ここの地上に生きる私たちのそばに立ち、そして私たちを見てくださっている。そのことを覚え、悔い改めと、そして深い喜びとを受け取りながら、神様に向き合って生きる日々を、過ごしてまいりたいと思うのです。