kyrie.

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必要でないことを考える

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毎日仕事に追われている。

教師という仕事は最初の一年が一番大変らしい。早速校長から電話番号を聞かれて「新任の先生は最初の数ヶ月で疲れが溜まってだいたい倒れるもんだから、そうなったらすぐ電話してね」と釘をさされた。
倒れる前に仕事に溺れそうになっているが、多分これをクソ真面目に全部やろうとするとそうなるんだろうな、という予想がつく。

そんなわけで、気づけば仕事のことでずーっと頭がいっぱいになっている。
そこから離れる事ができるのは寝てるときだけで、目が覚めて起きたらもう仕事のために準備をして出かけなければならない。
これはよくない、と思っていたんだけど何がよくないか言葉にすることも出来ないでいた。
なぜそんな事になっているか、久しぶりに前回の日記を書いて気付いた。
つまり、アウトプットの主体性が失われている、という問題だ。

WordPressのデイリープロンプトを使って毎日何かしらの記事を書いていた時に、自分はこういう言葉を書いている。

この毎日書き散らしをするということで一番良かったことは、「書くことの幸せ」が得られたことだ。

──「書くことの幸せ

この書くことの幸せというのは、必要にかられて求められている──つまり受動的に、文章を書かされることで得られるものではない。
「ただ自分のために書くこと。書きたいと思うことを思うがままに書き散らすこと」によってでしか与えられない幸せがあるのだということを、この数日間を過ごして改めて思い返した。
そう、仕事ではいくつも聖書のメッセージ原稿を書いたりしているけれど、ここには載せることが出来ないし(完全に中高生向けの呼びかけになっているので)、それは自分が今書きたいと思って書いているものではないから。

書くこと──自分の中のものをアウトプットする、ということにも、仕事によって求められてではなく、余暇としてのアウトプットがきっと必要なのだ。

他者からの求めに応えることから距離を置く。
そうしていま必要でないことに心を寄せる。
それが多分、素潜りで海に潜り続けているかのようなこの日々から、少しだけ息をする瞬間になるのかもな、と思ってこの日記を書いている。

忙しくて、どんなに時間がなくても、心まで牢獄に閉じ込める必要はない。
楽しむことを大切に、本来自由であることを忘れないようにしたい。