その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
――マルコによる福音書4章35-41節
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今の十代の子どもたちに対して「キリスト教あるいは宗教について、どのような印象を持っているか?」というアンケートを取ったことがあります。
すると、クラスの三分の一くらいの生徒が、「怖い」「洗脳されそう」「突然訪問してくる」といった答えを返してきました。
このようなイメージというのは、たぶん子どもたちだけではなくて、教会に通っていない、キリスト教にほとんど触れたことのない多くの人々に聴いても、同じような意見が返ってくるのではないかなと思います。
そして、そのようなキリスト教における誤ったイメージ──「怖い」「洗脳される」という印象というのは、一朝一夕でぬぐえるものではありません。
だからこそ、教会の様々な働きを通して、また私たち一人一人の関わりを通して、地道に伝えていくしかないものだと思います。
その地道な働きというのは、一見すると、私たちの目には、目立った成果を上げていないように見えてしまうかもしれません。
まさに、今日の福音書に記されている弟子たちの姿のように、乗っている船が転覆しないように頑張っているものの、功を奏していないような、そんな弟子たちの姿に、重なって見えるのではないでしょうか。
弟子たちは船の中でそれぞれに精いっぱいのことをしていたはずです。そこにはガリラヤ湖の漁師であったペトロのように、船を操る専門家もいたはずです。
それでも船は風にあおられ、波をかぶり、沈まないようにするので精いっぱいでありました。そのような嵐にも関わらず、自分たちの師であるイエスは船の艫(とも)のほうで眠っておられた、と聖書は語るのです。
弟子たちの中には複雑な思いでいっぱいだったでしょう。イエス自身が「向こう岸に渡ろう」と呼びかけられて今こんなことになっているというのに、当の本人は素知らぬ顔で寝ているだなんて! いったいどういうおつもりなのかという怒りが、弟子たちの言葉にはにじみ出ているようにも思います。
「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」!
この言葉は、原文を読むともっと激しい表現になっています。
直訳すると、「先生、あなたは気にならないんですか、わたしたちが滅びてしまっても」!と弟子たちはここで叫んでいるのです。
弟子たちがこれまで見てきたイエスというお方は、多くの人々の病を癒し、力ある言葉で神様の御心を人々に伝えていった人でした。
きっと弟子たちは思っていたことでしょう。「この人は、私たちにどんな問題が起こっても解決してくれる力を持っているお方だ」と。
それなのに、実際に自分たちが困っている今、何の助けも与えてはくださらない。
イエスに「なぜ信じないのか」と呼びかけられていく弟子たちの心には、この時、イエスに対する疑いさえも芽生えていたかもしれません。
中学生と高校生にアンケートを取った時、もう一つ、「キリスト教について聞いてみたいことはなんですか?」という質問も投げかけてみました。
すると、「なぜキリスト教を学ぶ必要があるのか」という言葉が返ってきました。この言葉の根っこには、宗教を学ぶということが何か自分にとって利益をもたらすものであるのか、利益がないなら聞くつもりも信じるつもりもないぞ、という気持ちがあるのだと思います。この日本の伝統的な宗教感はご利益宗教である、ということも影響していることでしょう。
弟子たちもきっと、そのようにイエスを見ていたんじゃないでしょうか。自分にとって何かしらの利益になるだろう、という打算でイエスの弟子となった人ばかりだったからこそ、あの十字架の前に弟子たちは一人残らず裏切って逃げてしまったのです。
しかし私たちは知っているはずです。キリスト教とは、私たちの信仰の深さと引き換えにご利益が与えられる宗教ではない、ということを。ですから今日の箇所においても、イエスの言葉をそのように受け取りたいのです。
キリストは弟子たちの声に起こされ、風を叱り、湖に向かって「黙れ。静まれ」と言ってくださいました。それだけで、途端に凪になった、と聖書は語ります。
このようなキリストの姿から、キリストが私たちの目の前にある困難に一言叱ってくださるだけで、その困難は解決する、というふうにも聞こえるかもしれません。
しかし、実際にはそのようなことはほとんど起こることがありません。そして、困難が解決しないということは、私たちの神様はまだ眠っておられるのか、それとも私たちの信仰が弱いのか、と受け取ってしまう人だっているでしょう。
けれどもそれこそ、弟子たちが、そして多くの人々が陥るご利益宗教的な読み方なのです。
キリストは私たちに問いかけられます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」この言葉は、イエスが弟子たちの、そして私たちの信仰の弱さを測っているから出た言葉ではないのです。
まずイエスご自身が「向こう岸に渡ろう」と言ってくださったのだから、その言葉に信頼していなさい、何も怖いことなどない、という呼びかけなのです。
だからこそ私たちがもし、いつもキリストに言われた言葉に信頼していくのであれば、私たちの手に負えない困難の中にあってなお、凪のような冷静さで目の前にある困難を受け止めることができる。
そして、そのような中で、地道な努力を続けていくための安心を与えられる、ということが、ここには語られているのです。
キリストは船の艫のほうで眠っておられました。そこは、船の中で最も揺れの激しい位置であったはずです。それでも眠るほどの平安に満たされている姿を見せることで、キリストは私たちにも、その平安を与えようとしておられるのです。
そのような平安のうちにあるからこそ、嵐の中で焦りや不安によって神様を疑うようなよそ見をするのではなくて、今何をすべきか、それは船を沈まないようにすることだ、という努力に全力を注ぐことが出来るようになるのです。
「向こう岸にわたろう」と言ってくださったのはイエスご自身でありました。
つまり、キリスト教会が建てられ、教会につながっている私たちが担う宣教と言うわざは、元をたどれば神様が始められたわざである、ということです。
だからこそ、私たちが乗っている教会という船が、今、嵐の中、宣教的な試練の中にあったとしても、それでもそこでキリストは私たちに言ってくださっているのだと思います。
「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」――「怖がることなどない、わたしがいる。わたしが行こうといったのだ。私を信じなさい」。
キリストはそう言ってくださるお方なのです。
私たちはその言葉を信じたいと思います。あなたがいるから大丈夫なのだという確信を胸に留めるからこそ、私たちはどのようなことが起こるかもわからない、この一週間を踏み出していけるのだと思います。
私たちが信じている宗教とは、すべての人を救うものです。
洗脳するのではなく招き、傷つけるのではなく癒し、悲しんでいる人を陥れるのではなく慰めるような、そのような神様を私たちは信じている。そのことを、私たち自身の姿をもって、十年、二十年、いやこの地上の生涯の終わる最後の日まで、証していきたいのです。
そのような私たちの傍らにこそ、キリストもまた共に立ってくださっています。そして、その力強いみ言葉をもって、私たちの心を、平安に保ってくださるのです。