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手を差し伸べるために、あなたは来た


わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。

――ヨハネによる福音書12:47

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以前、仏教のお坊さんやキリスト教の牧師などを集めて宗教についてのぶっちゃけ話をする、という番組を見ました。
仏教にもたくさんの宗派があって、宗派によって修行をする宗派としない宗派がある、という話が興味深かったのを覚えています。
そこであるお坊さんが「宗派によって修行をするかどうかは大きな違いはありますが、宗教ですから、神様が人を救いたいというのは同じです」と締めくっておられました。

キリスト教も仏教と同じように、神様が人を救いたい、その思いのためにある宗教です。
でも、仏教の宗派以上にたくさんの種類があって、中にはキリスト教のふりをして聖書を片手に人々を惑わす新興宗教やカルトの集団も日本にはたくさんあります。
しかし、仏教と同じように、ちゃんとした宗教は、決して私たちを不幸にするためのものではありません。
その教えだって、私たちの周りにいる誰かに迷惑をかけさせたり、悲しませることを勧めたりはしないのです。
神様が人を救うために、本来宗教と言うものはあるからです。

では、ちゃんとしたキリスト教を見分けるためには、どうすればいいんでしょうか。
実はちゃんと方法があります。その一つが、「使徒信条」というものです。

多くのキリスト教会の礼拝の中で、参加者皆で唱えるものが二つあります。
一つは、主の祈り。これはキリスト教の祈りの中で最もスタンダードな、キリストご自身が弟子たちに教えられた祈りです。
そしてもう一つが、「使徒信条」や「ニケヤ信条」と呼ばれる信仰告白の言葉です。
「天地の造り主、全能の父である神を、私は信じます……」というような言葉から唱えられるこの使徒信条は、2000年前からキリスト教がいったいどのようなことを信じているのかを簡単にまとめたものです。

この日本には、カトリック教会、ルーテル教会、日本基督教団、聖公会、バプテスト、ホーリネス……数えきれないほどの様々な教派のキリスト教会があります。
ちゃんとしたキリスト教会の教派は、この使徒信条のような信仰告白か、それに近い宣言を、礼拝の中に取り入れていることがほとんどです。
逆に言えば、この使徒信条の内容を否定しているキリスト教っぽいところは、ちゃんとしたキリスト教ではない可能性が高い、と見分けることができるものなのです。

イエス・キリストは、そのようにして正しい教えを捻じ曲げて、自分の利益をむさぼろうとする人がいることを知っていました。
しかしイエスは言うのです。
「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」

困っている人を救い、笑顔にし、助けるものであるはずの宗教が、周りを傷つけ、搾取し、不幸にするために使われる。
そのように変わってしまう原因は、宗教を解釈する人間の側にあります。
でも、そうやって無数に生まれ続けるカルトや新興宗教に対して、ちゃんとしたキリスト教会が「あなたたちの宗教は間違っている」と一つ一つ潰すために時間を割くことを、神様は望んではおられません。

神様の目は、目の前に苦しむ誰かを救うためだけに向いています。
そしてそのような神様の心を、私たちも受け取りたいと思うのです。
誰かを非難し、誰かを悪と定めて排斥する時間があるのなら、それ以上に悲しみ悩む人に手を差し伸べ、誰かを救っていくことに時間を使う。そんな私たちでありたい。
イエス・キリストもまた私たちに、そのように生きるようにと、呼びかけているのです。