しかし、神はわたしの魂を贖い、
陰府の手から取り上げてくださる。
──詩編49:16
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牧師になるための勉強をしていた時、十字架のペンダントを買って身に付けていた時期があります。
しかし、ある時旧約聖書を教えている先生から、このように言われました。
「なんで十字架のペンダントなんてつけてるんだ。それはイエスを死刑にした処刑の道具だぞ。」
そんなことを考えもしなかった私は、改めてイエスの十字架を自分の身に着ける、ということはどういうことなのかを考えさせられたことがありました。
キリストは十字架にかけられて殺されていきました。ですからキリスト教において十字架とは、神の命さえも容赦なく奪ったものであり、そこには人の罪、悪い心が焼き付いている、そういうものではないかと思います。
私自身、たくさん失敗して悔いることが多かったことから、「私の罪のためにあのイエス・キリストが十字架にかかってくださったのだ」という戒めを含めて、十字架を身に付けていました。
あるとき他の牧師から、イエスはなぜ、十字架にかけられて殺されなければならなかったのか、ということについての話を聞きました。
イエスはすべての人の罪を贖ったのだから、当時最も重い罪を犯した人がかかる十字架刑でなければならなかった、ということが理由の一つとしてあると思います。
しかしその牧師はもう一つの意図、神様ご自身がそうされた理由について考えておられたのです。
その牧師は、このように話されました。
「この十字架の横の棒と縦の棒にこそ、神様の救いの意味が隠されている。つまり、十字架の横の棒を私たちの世界とすれば、縦の棒は、キリストが天から降り、また天へと帰って行かれた道筋を表しているのだ。」
イエス・キリストという人間として、神様は私たちの世界に来てくださいました。そして十字架によって死んで、三日間、この世からイエス・キリストは失われてしまいました。
その間イエスはどこにいたのかというと、それは横棒である私たちの世界よりももっと下、陰府(地獄)にまで降っていってくださったという考え方があるのです。
生きている間にイエスに会えなかった人々、イエスを信じなかった人々にまで、神様の救いを信じるようにと、イエスはその十字架の死を通して、今生きている人にも既に死んだ人にも、すべての人に神様の救いを伝えてくださった。
それが、十字架と言う形に示されている。神様が十字架で死なれた意味はそこにあるのだ、というお話をされていました。
この話を聞いたとき、すごく救われたような気がしました。私の罪がイエスを──神様を殺したのだ、という戒めだけでは苦しいだけだった自分に気が付きました。
でも、神様は私を苦しめるためではなく救うために、自分の命さえ差し出してくださったのだと受け取ったとき、十字架が自分を戒めるだけのものではなくなりました。感謝の心を引き出すものに変わったのです。
あなたが生きる毎日においても、時には地獄のように感じることがあるかもしれません。
しんどくてつらくて、自分ではどうしようもできない大変さに悩む日があるかもしれません。
しかしそれでも地獄の底にまで手を伸ばし、あなたを救いたいんだという思いをもって、神様は、イエス・キリストとしてこの世界に来てくださったのです。
そのようなキリストだからこそ、もしあなたが地獄の底で悩んでいるなら、きっと手を伸ばしてくださる。そんなあなたを救うために、わたしは十字架にかかったのだと、そう言ってくださるお方なのです。
私たちはそのように、十字架を受け取っていきたいと思うのです。