おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。
──ローマの信徒への手紙15:2
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11月13日に、詩人である谷川俊太郎という方が天に召されました。
多くの人々がその名前を知っていると思います。国語の教科書にあった「生きる」という詩を思い出す人も多いかもしれません。
この「生きる」という詩を改めて読んでみると、すごく素朴に、しかし鋭く、私たちのいのちについて描き出した詩であると思います。
生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして かくされた悪を注意深くこばむこと生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いま いまが過ぎてゆくこと生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ──谷川俊太郎「生きる」より
この詩を読むとき、私たちが生きる、ということについて深く考えさせられます。
生きるということは、私たちが自由に、泣き、笑い、怒ることができるということ、それはつまり私たち自身の心が、誰にも束縛されるべきものではないということです。
しかし同時に、私たちが誰かとの関係の中で生かされていく、ということにも、目が向けられています。
すべての美しいものに出会う、ということ。それは、目に見えるものだけ、手に触れられるものだけではありません。
誰かを愛すること、誰かと一緒に生きていく、その相手のいのちを、自分のものと同じようにいつくしんで生きていくことだと、やさしい言葉で紡いだ詩であると思います。
聖書は私たちに、「隣人を自分のように愛しなさい」と勧めます。
それは具体的に言えば、「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。」という勧めでもあるのです。
つまり私たちにとって最も大事なこと──私たち自身が生きるということは、誰かとともに生きている、という事実に心を寄せることなのだと思います。
生きているということ。いま、生きているということ。
それは疲れたときに差し出される一杯のあたたかい珈琲。
それは真っ暗闇の心に差し込む光のような優しい言葉。
イエス・キリストが示された愛と慈しみに生きること。
谷川俊太郎は、宇宙について思いをはせる人でした。
大きな宇宙からちっぽけな一人の人間をじっと見つめる視点。でもそのまなざしは、そこに「生きる」ひとりの心に深く深く寄り添っている。
それは、彼にとっての神様のまなざしだったのかもな、とも思うのです。
谷川俊太郎──そのいのちをかけて、生涯をかけて、「生きること」を描いた一人の詩人を、私はいつまでも覚えていたい。