kyrie.

Christian,Bible,Games,and Diary.

小さな正しさが誰かを救う


イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

──マタイによる福音書1:18-25

+++

街に出てみると、どこもクリスマスのにぎやかな雰囲気でいっぱいです。
イルミネーションは輝き、クリスマスツリーとクリスマスプレゼントが飛び交う中で、何をサンタさんにお願いしようかな、と考えている人もいることだろうと思います。
まさにクリスマスとはイエス・キリストが誕生したこと、新しい命が生まれた、めでたい、うれしい日をお祝いする日だ!と思うと、この賑わいもふさわしいものに見えるかもしれません。

でも今日の聖書の箇所、クリスマスの出来事なのに、なんだかそんな明るい雰囲気は伝わってこないのではないでしょうか。
むしろイエスの母マリアとその夫ヨセフにとっては、めでたい、うれしい、といった感情とは真逆の状況が、そこにあったのです。
というのは、「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」と語り始められたクリスマスの出来事は、次の一文で驚くようなことを語っているからです。
「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」
ヨセフと結婚を約束した妻マリアが聖霊によって、つまり夫以外の子を身ごもった、というのです。

旧約聖書によれば、夫以外の男性と通じた妻は石打の刑だと言われています。
当然夫のヨセフもその律法を知っていたことでしょう。ヨセフとマリア、結婚を約束した二人が、突然生きるか死ぬか、という危機に立たされていたのです。
それが、聖書が語るクリスマス──イエス・キリストの誕生の物語だというのです。

しかしヨセフはマリアを訴えることはせず、「マリアのことを表ざたにせず、ひそかに縁を切ろう」という決心をしています。
ヨセフはこれを、すすんで選んだわけではなかったはずです。
なぜなら、そうすることによってヨセフは、マリアを一方的に理由もなく離婚した自分勝手な男、と見られることになるからです。

しかも、そうやってマリアがもし出産したとしても、夫であるヨセフが養うことができなければ、見殺しにするようなものでした。
当時のユダヤ人の社会では、女性が一人で生きていくことはとても難しかったからです。
周りの人々からは差別の目で見られ、物乞いをしなければ生きていけないような貧しい状況にマリアたちは追いやられることになったかもしれません。
それでも愛する人が命を奪われずに済むなら、自分が悪く言われようとも構わない、とヨセフは考えて、このように苦渋の決断したのです。

ヨセフの気持ちになって考えてみたいのです。
自分の愛する婚約者が、夫である自分以外の子を身ごもっている。きっと穏やかな気持ちではなかったはずです。
驚きやとまどい、不安や裏切られた悲しみなど、様々な気持ちが心を埋め尽くしていたはずです。
そのような気持ちを抱えながら、それでもマリアのいのちを救うために、自分も苦しい選択をしていったのです。
そこに、夢の中で神様からヨセフはこのように告げられていくのです。
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」

ヨセフは、神様からこのような言葉を受けて、納得できたでしょうか。
「神様が言われるならそうしよう」と思えたでしょうか? そう考えてみると、決して割り切ることなどできなかっただろうと思うのです。
それでもヨセフは、「眠りから覚めると、主の天使が命じたとおりに妻を迎え入れ……その子をイエスと名付けた」と聖書は続けて書いています。
きっと、私たちの人生だって、そういう時が一度はあるのではないか、と思うのです。

ヨセフは私たちと同じ、普通の人でした。
この物語の後、福音書には名前すらほとんど登場しません。
イエス・キリストという全世界の救い主が主人公の物語の中で言えば、目立たない側の登場人物に見えるかもしれません。
でも聖書は言うのです。「彼は正しい人だった」と。
この「正しさ」とは、なんでしょうか。
それは彼が、これまで経験したことのない、命を左右するような状況に陥った時──自分勝手に考えるのではなく、目の前の相手のことを大事にした人だった、ということです。
だからヨセフは、神様の心に適った正しい人だった、と聖書は告げていくのです。

ヨセフがやったことは、一見大それたことには見えないかもしれません。
でも、いろんな思いを抱えつつも、聖霊によって宿ったという自分の子どもではない子どもに、イエスと言う名前を付け、自分の子どもとして愛し育てていくという無言の忍耐の中に、相手への深い愛と慈しみを見出すことが出来るのではないでしょうか。

そのような彼の振る舞いは、目立つものではありません。
私たちだって、社会の中で一躍有名になる人ばかりではないかもしれません。
誰にも目に留められないような、どこにでもいる人の一人だと、自分のことを見つめながら生きていくかもしれません。

でも、それでもそんなあなたを、神様は選ばれるのです。

神様がヨセフを選び、ヨセフがマリアを妻として迎え入れなければイエス・キリストは生まれてこなかったように。
もしあなたが誰かのために忍耐し、誰かのためを思って、その心に寄り添い、関わりあおうとするとき、きっとそれを通して、苦しみ悩むその人の心は救われていく。
それは私たちの力ではなく、私たちの行動を通して、神様がそうなさるのです。その救いの一端を、わたしたちにも担わせてくださるのです。
クリスマスの出来事におけるヨセフの姿、その物語とは、まさに普通の私たち一人一人のために、語られているものであるのです。

ヨセフは神様に正しい人でした。
目立たず、黙って、誰かの心に寄り添う、そんな姿を、神様はしっかりと見つめ、それを用いて、全世界の救い主をこの世に送るという大きな出来事を起こしていきました。
私たちもこのヨセフのようになりたいと思います。
目立たなくてもいい、大それたことをしなくてもいい。
目の前の人を大切にできる、そんな神様の御心に適った人でありたいと思います。そんなあなたの手を、きっと神様は、誰かを笑顔にするために、用いてくださるはずです。