年々、大みそかと正月というものの感覚が薄れてきているような気がする。
本来正月と言うのは、過ぎ去った一年を振り返って、無事に過ごせたことを感謝しつつ、新しい年において再び恵みある年を過ごせるようにと神に祈る日としてあるものだ。
というのは、鏡餅の由来からもそう言える。鏡餅と言うのは年神様を家に招くための依り代であり、その年神様に豊穣を願って、神の宿った餅をいただくことによって祈るわけである。
こういう風に書くと、キリスト教の聖餐の儀式とかなりよく似た部分を感じる。
聖餐──パンを「キリストの体/肉」として信じていただく儀式であり、私たちが食べるということによって、キリストご自身を自分の血肉としていく、物理的な形で信仰を実感し、強められる儀式として大事にされているものだからだ。
正月らしい正月を感じられないまま、ふと『主と祈り、主と生きる366日』という本を開いたら、期せずして心に響く言葉に出会ったので、今年の筆始めにしようという気が起きたのでこうして書いている。
1月1日の祈りのために引かれた引用聖句と、有名な神学者の言葉は、ある意味本当の「新しい始まり」を教えてくれたので、ここに書き残しておきたい。
「見よ、わたしは万物を新しくする」──ヨハネの黙示録21:5
「もしもキリストへの信仰によって祈りに導かれなかったら、そんな信仰とはすっぱりと縁を切って、捨ててしまいなさい。そうすればまた最初からやり直せるように、神が助けてくださるだろう。」──チャールズ・ハットン・スポルジョン
クリスチャンにとって信仰を捨てる、ということはとんでもなく絶望した時や追い詰められた時、やむを得ない場合においてのみ、そういう心が生まれるものだと思う。
けれどもスポルジョンは言う。「祈りに導かれない信仰など捨ててしまいなさい」と。
それは無信仰の言葉ではなくて、むしろ深い神への信頼に裏打ちされた、本当の信仰の姿をうまく言い表している勧めの言葉だと思う。だから彼はこう続けるのだ。「そうすればまた最初からやり直せるように、神が助けてくださるだろう。」
今まで積み上げてきたもの、続けてきたことをすっぱりとあきらめて、またイチから始めるということは難しいことだ。それは心理学でも証明されていることだし、「もったいない」という日本語に私たちに根付く精神が表されているように思う。
でも、本当に必要なものはきっと神様がその時々に必ず与えてくれるものだ、と聖書は私たちに教えているのだから、それを信じるということは、いつだって新しくやり直すことを恐れなくていい、ということでもあるのだと思う。
思えばこのブログも一昨年の11月から始めて、いつのまにか1年が経っていた。
でも、未だにこのブログに何を書いたらいいかと悩むことがある。でも、そのたびに、他にも自分のサイトを持っている人々を見て、「必ずしも誰かに役に立つことでなくてもいい、自分が感じたこと、他者にとってはなんでもないことでも書いていいのだ」と励まされて、ブログ開設からの一年を過ごしてきたのだと思い返す。
だからこれからも、ここに何かを書くときは、いつだって新しい気持ちで筆を取っていけばいいのだ、と思う。新しい記事を書くときには、新しいブログの一番最初の記事を書き始めるみたいに、何を書いたっていいという気持ちで書いていきたい。
これはきっと祈りだ。そしてきっと、毎日はそういう無数の祈りで出来ている。
今年ももう一週間が過ぎようとしているけれど、こうやって今年初めの記事を落ち着いて書くという時間がなければ、今年を始めたという気持ちにはなれなかったな、とここまで書いて感じている。
のんびりやっていこう。好きなことを書き散らしていこう。
あけましておめでとうございます。