◆福音書とは
「福音書」は、イエスの生涯を物語として描くことで、イエスの教え(救い)を伝えようとした書物だ。新約聖書の半分を占めるパウロ等の手紙(ローマの信徒への手紙など)の後に成立したと言われている。
当時は何十種類もの福音書が流布していたと言われている。(ちなみにユダの福音書やマグダラのマリアの福音書は日本語訳されて出版されている)
その中からキリスト教会が「ただしいキリストの姿・キリストが意図した教え」を語っているものを選び、現在のマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書に決定していったという経緯がある。
また、福音書の成立年代もズレがあり、マルコ福音書が一番古く、マタイとルカはマルコ福音書とそれぞれの独自資料をもって福音書を書いたため、マルコより十数年ほど後に登場した福音書になる。
このため、マルコ・マタイ・ルカは同じ資料を「共」に「観て」福音書を書いたため「共観」福音書と呼ばれている。
この三つの福音書の中で、同じような内容(ただし細部は違う)記事が登場するのもこのためである。
なお、ヨハネ福音書は共観福音書とはまったく別個の独自資料を用いて書いているため、共観福音書には入れない。
当時異端とされていたグノーシス主義的な要素も含まれているが、ヨハネ福音書にしか語られていない、教会としては外せないイエスの姿もかなり記されているため、これも収録されることになった。
また福音書は、たとえば「マタイによる福音書」と名前が付けられているが、元々は単なる「福音書」というタイトルしかつけられておらず、(おそらくマタイという弟子が書いたであろうけれども確証はない)のちにマタイによる福音書、という暫定的な名前の付け方がなされて今に至っている。
福音書は権威ある弟子たちが書いたから教会が聖書を編纂するときに抜擢された、というわけではない。
◆なぜ複数収録された?
イエスの生涯、その教えを記したもの、とするなら、4つもいらないのではないかと思うかもしれない。
しかしこれらの福音書は、それぞれ想定する読者と、「イエスは何者なのか」という視点が異なる。これによって、様々な視点から多角的にイエス・キリストと言うお方を見ることができるという利点もあり、またそのどれもが真理である。
◆マタイ福音書の特徴
マタイ福音書1章1節は「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」という言葉から始まる。
この系図は、アブラハムの子=「イエスがユダヤ人である」、ダビデの子=「『イスラエルを救うメシア(救い主)はダビデの子孫から出る』という旧約聖書の預言が成就したのがイエスである」という意味を込めて書かれている。
つまり、旧約聖書に精通し、ユダヤ人である、という読者に向けて、いの一番に伝えたいことがまず福音書の一番最初に書かれているということだ。
このように書くことによって、ユダヤ教の人々によって神を冒涜したとして十字架にかけられたイエスは、決してユダヤ教を否定したり改変したりしようとした人ではなかった、ユダヤ教の伝統に基づいたユダヤ教を信じていた人だった、ということをマタイは伝えようとしている。
そして、旧約聖書を知っている人であればだれでも知っているメシア到来の預言が実現した人物こそイエス・キリストである、ということを証するための福音書でもある。イエスの言葉にいちいち旧約聖書の引用がくっついてくるのも、旧約聖書の教え(信仰)から外れていない、ということの証明のため。
◆ルカ福音書の特徴
わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
──ルカによる福音書1:1-4
ルカ福音書1章1~4節を読むと、この福音書が「テオフィロ様」という人に向けて書かれていることがわかる。
このテオフィロという人はギリシャ語で「神を愛する人」という意味の言葉で、ユダヤ人とは思えない名前であること、また「様」は「閣下」という呼び方もできる言葉であり、ユダヤ人にそのような立場の人はいないため、ユダヤ人ではないと考えられる。
つまり、この福音書は旧約聖書も知らない、ユダヤ人でもない人々(聖書では「異邦人」と呼ばれる人々)に向けて書かれた福音書である。
そのため、イエスもマタイとは少し違う動きをする。マタイでは「山上の説教」と言って山の上で人々にみ言葉を語るが、旧約聖書の伝統では山とは神に出会う場所とされており、その権威をもって語ったメシアとしてのイエス、という姿を強調している。
対してルカは同じような内容を語るとき「山を下り」、人々と同じ平野で説教を始める。このことから、イエスは権威的な立場から語ったのではなく、神でありながら人間と同じ立場に立って生き、神の福音を伝えたという「人間としてのイエス」として描かれている。
◆マルコ福音書の特徴
マルコ1章1節には「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉がある。こう見るとマルコは「神の子としてのイエス」を語ろうとしているように思うが、実はそれにとどまらない。この「神の子」とは、マルコ福音書著者とは別の、写本をした後代の人が勝手に付け加えた文言だからだ。本来は単に「イエス・キリストの福音の初め」と書いてあるだけである。
マタイもルカも、「イエスは神様の御子で、人間で、救い主なんです!」と主張をして、その理由としての物語を語っていくが、マルコは「イエスって本当のところ、何者だと思いますか?」という問いかけを本文の中で何度も繰り返していく。
色んな登場人物たちが、イエスは何者だ、という答えを出していく。洗礼者ヨハネの生まれ変わり、エリヤ、預言者の一人……しかしそのどれに対してもイエスは「その通りです」と言うことはない。「誰にも話してはいけないよ」と戒めるだけで、正解を明らかにしないまま十字架の上で死んでいく。
最初の「神の子」というのも、イエスが十字架にかかったときに、ユダヤ人ではないローマの兵士が「本当にこの人は神の子だった」と言ったことからきているが、福音書の中で提示される一つの答えに過ぎない。
また、マルコは実際には16章8節で終わっていたとされている。
その後も後代の人の付け加えで、婦人たちが空になったイエスの墓をみて、天使たちから「彼は復活したのだ」と聞き、正気を失って逃げ去っていく、という尻切れトンボのような内容で締めくくられている。
これは意図的にマルコがそのようにしているわけであって、「人間の論理ではありえないことが起きた」という人間であれば当たり前の反応で締めくくっている。
そしてそのうえで、マルコは一番最初の言葉に戻るように仕向けているのだ。
「イエス・キリストの福音の初め」──本書を読んだ「あなた」にとって、イエスは何者だと思いますか?という問いかけに、福音書を読んだ私たち一人一人が答えを出そうとしていくこと。
それこそ、「イエス・キリストの福音(に到達するための歩み)の初め」である、という一文なのである。