無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
──エフェソの信徒への手紙 4:31-32
先日、FacebookやInstagram、threadsなどのSNSを運営するMetaという会社が、「これまで行ってきた第三者によるファクトチェックを廃止する」ことを決定しました。これからはXでも使われているようなコミュニティノートと同じような機能に置き換える、というのです。
ファクトチェックとコミュニティノートの違いってなんでしょうか。
ファクトチェックとは、誰かが言ったことに対して、第三者機関によってそれが本当であるのかをチェックされる、という機能です。
一方でコミュニティノートは、誰かが言ったことに対して、そこにいるユーザーが正しいかどうかコメントできる、という機能なんですね。
この二つの違いって何でしょうか。
なぜ、ファクトチェックからコミュニティノートに変わるということが、そんなにも話題として取り上げられているのでしょうか。
それは、この世の正しさが、多数となった人々の意見によって左右されてしまう、という危険性です。
旧約聖書を読むと、ユダヤの人々は神様から「カナンの地をあなたがたの土地として与える」という約束を与えられ、ユダヤ人たちはパレスチナへと侵略していきます。そこで聖書の神様は「万軍の主」と呼ばれ、先住民を神の名のもとに滅ぼしつくし、自分たちの地としていくのです。
ただ、このような記述は、決して真実の歴史をそのままに記したものではない、という解釈が一般的です。
当時の住居などの痕跡を考古学的に調べてみると、ユダヤの人々はまず、カナンの地で人があまり住まない高地に住み着いたようです。そして高地で育てた羊などを先住民に売るなど、商売人として関わったり、その近隣地域で起こる戦いにも参加することで、だんだんと先住民たちからも認められるようになり、高地から平地へと移住していった、というのです。
だから、このような歴史的な研究結果から見ても、聖書の言葉を文字通りに解釈し、一方的な虐殺や戦争、テロを正当化する根拠にする、ということは決して正しいことではありません。何より、道徳的にありえないことです。
しかし現実はそうではありません。
自分たちの願いを叶えるためなら、自分に都合のいいように周りのものを利用し、他者を踏みにじってよいという正しさに生きている人がいるのです。
誰もが、そのような間違った正しさに流されてしまうことがあります。
それなのに、さも本当に正しいかどうかは関係ないかのように、「あなたは何が正しいと思いますか?」「他の人はこれが正しいと言っていますよ」という人と人との対立を加速させるかのようなの機能が、多くの人々が使っているSNSに搭載されてしまう、という事態が起こっているのです。
本当の正しさなんてどこにあるんだと、私たちは思うかもしれません。
でも、一人一人が違う正しさを持って、お互いにその正しさを押し通そうとして対立する、そんな息苦しい世界になることを、誰も望んでいないはずです。
だからイエスは教えたのです。「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど」の、人を傷つけるものすべてを、「一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、…赦し合いなさい。」と。
本当の正しさとは、誰かを傷つけたり、対立させたりするものではありません。
いろんな意見があることを受け入れあうこと、相手の気持ちに立って、心を寄せて親切にすることが、すべての人にとって揺らぐことのない正しさであることを、イエスは2000年前に既に語ってくれていたのです。
私たちも、何が正しいのかと迷うときには、この正しさに立って生きたいと思います。
イエス・キリストの言葉を、その正しさを思い出してほしいと思います。
きっとそこには、揺らぐことのない神様の正しさが、教えられているからです。