ブラックキャット・カーニバル、通称「ブラキャニ」というSNSに、最近どっぷり浸かっている。
Fujiiさんのnoteを見て自分も始めたのたが、すごく居心地がいい。
というのも、投稿に対してほとんど完全に「匿名で」コメントを投げれるシステムになっている。
運営ポリシーとして「13歳の中学生が見ても構わないもの」が掲げられていることからも、ほとんどがポジティブなコメントばかりが飛んでくる。
やってみて初めて気付いたのは、こんなに自分は誰かと言葉のやり取りをしたかったのかということだ。
ポジティブな言葉のやり取りは、とても心地よい。
驚くべきことは、ポジティブな言葉を受けると、自分も誰かにポジティブな言葉でコメントを投げかけたくなる、ということだ。
そうやってますますポジティブなやり取りが相互に加速する、という、近年稀に見る治安の良さに驚いている。
キリスト教を教える時にも「相手に愛を持って接する」ことをよく勧めるけれど、ブラキャニというSNSはその理想がほぼ実現している場所だな、と思うこともある。
というのは、ネガティブな話題を排除しているのではなく、むしろネガティブな話題にさえ優しい言葉が並ぶため、それで癒やされる人もいるからだ。
本当はみんな、こういう言葉が欲しかったんじゃないか。
こういう言葉のやり取りがしたかったんじゃないか。
そう思わせる空間を維持できるようなシステム作りにも脱帽する。
ともあれ、Blueskyでやっているように、出来たばかりのSNSなんだしガチのキリスト教の話をするアカウントが一つくらいあってもいいだろ、と思って作ってみた。
キリスト教の質問を募集したところ、驚くほど気軽にガンガンと集まってきたので嬉しくなってしまった。
ブラキャニはまだアプリ版しかないにも関わらず、まとめてみたら(ここには回答を載せられなかった質問も含めて)6000字を超える文字数(???)になっていたので、いかにやりとりが楽しかったかを感じ取ってほしい。
今見ても「スマホだけでその文字数打ったの?ほんとに???」となる。本当です。
ということで、以下はブラキャニの「聖書・キリスト教の話」というルームでやり取りした、キリスト教についての一問一答である。
幸いにも質問する人だけでなく読んでくれる人も多いみたいなので、質問者(あくまで匿名だがアカウントごとにハッシュ値が振られているので見分けはつく)に許可を取ったものは、以下にまとめさせてもらった。
つまりこれは第一弾である。
読んでみたい一問一答を目次から飛んで読んでほしい。
目次
- ・今までで一番救われたなっていう教え!
- ・確実に相手からの愛は失われたのに、相手への愛しさが失われないというのはどういう状況なのだろう。寂しくても愛しいと思ってる。
- ・(↑の続き)では一方的な思いであれ、相手を愛する=大切に思う気持ちがあり続けるのも人としておかしな事ではない、という事でしょうか?
- ・牧師になった理由を聞いてみたい!
- ・牧師さん足りていないんですね…社会に出てからでも大学 に入り直したりすれば牧師さんとかになれたりするんでしょうか。なるの難しいかな
- ・好きな天使は誰ですか?とか聞いてもいいんでしょうか?
- ・家に聖書の宗教勧誘くるアレはカルト?
- ・駅前で冊子配りつつキリストは○○をなされた~と音声 を流してる人たちもカルトですかね…..?
- ・同じプロテスタントでも日本基督教団とか日本長老教会とか日本福音ルーテル教会とか法人が分かれてるんですが、横のつながりとかはあるんですか?
- ・知り合いにキリスト教の方がいるのですが、コレだけは 知っておいた方がよい(これだけはNGとか) ことってありますか?もしあれば教えて欲しいです!
- ・プロテスタントはたくさん教派がありますけれど、ここはより実践傾向とか、反対にここは教義の細かさをより重視してる、みたいな違いはあるのでしょうか。
- ・アメリカの教徒ではよく地動説とか進化論が問題になってる感じありますけど、日本ではどうですか?
- ・信じるものがあるとやっぱり違う?無神教だけど、たまに信仰心ある海外の人とかいいなって思う
・今までで一番救われたなっていう教え!
たくさんありますがその一つを。
聖書のローマの信徒への手紙というところに
「(神の前に)正しい者はいない。一人もいない。」
という言葉があります。
当時どうしても許せない人がいて
その人の悪い部分ばかりを思い起こしては
「だからあの人は悪い人なんだ」と
決めつけていました。
でもこの言葉を読んだとき、
「悪い人だから許せなくて当然だ」と
自分を正当化していたことに気付かされました。
誰だって失敗するし、
人を傷つけることがあります。
相手に許してもらえないことを
意図せずしてしまうこともあります。
でも、自分もそんな人を
一方的に断罪できるほど
立派で正しい人間だろうかと振り返ると
そうでないと思うのです。
そう自分を振り返ると、
フッと心が軽くなったのを覚えています。
誰かを許せなくて、
嫌いだと思う気持ちを抱え続けていると
心も全然晴れ晴れとしません。
それよりも、「正しい人など誰もいない」
=「だから皆、お互い様だ」と、
少しのゆるしを心に持つことで
自分の心も軽くなるし
周りの人にも優しくなれる。
そんな救いの言葉として、この聖書の言葉は
今も思い出に残っています。
・確実に相手からの愛は失われたのに、
相手への愛しさが失われないというのは
どういう状況なのだろう。
寂しくても愛しいと思ってる。
聖書における「愛」は、その訳語から
「好きの延長線上にあるもの」と思われがち
ですが、実は日本に来て初めて訳された時は
「オ大切ニ」という言葉だったそうです。
相手を好きとは言えなくなったかもしれない、
でも相手を憎まず、尊重し、一人の人間として
相手を「大切に思う」気持ちを
持ち続けていくような、
そんな状態を聖書は「愛すること」と
表現しているのだと解してよいと思います。
・(↑の続き)では一方的な思いであれ、
相手を愛する=大切に思う気持ちがあり続けるのも
人としておかしな事ではない、という事でしょうか?
まったくおかしなことではないと思います。
むしろ、そうすることによって、
私たちが誰かを大切にする、ということを
繰り返し学ばされると思います。
ブラキャニという場所もそうですが、
誰かに優しい言葉をかけることによって、
誰かに優しい自分でいられる、
という相互作用も起こるものです。
他ならぬあなた自身のために、
誰かを大切にすることだって、
あって良いと思います。
・牧師になった理由を聞いてみたい!
話すと長くなるので全部は話せませんが、
元々親がクリスチャンで、生まれた頃から
教会に通っていました。
物心ついた頃には、神様は当たり前にいると
信じていた子どもだったのです。
高校、大学生活の中で迷ったり悩んだり
することが色々ありましたし
神様を信じることができなくなって
教会に行かなくなった時期もありました。
でもある時振り返ってみると、
人生の節目節目に起こった出来事や、
そこで選んだ決断は
自分一人では選べなかったものばかりで
誰かとの出会いや
誰かからかけられた言葉がきっかけになったり
時には失敗したことさえも
今日の自分になるためには
今思えば必要なことだったんだなと
思った時期がありました。
だから、そこにはきっと
自分の選択だけではない
何か他の大きな力が働いていたと、
その時々の自分に必要な出会いや
必要な助言を与えてくれた神様が
いたんじゃないかな、と思ったときに
「神様にはかなわないな」
「これからの人生は神様におまかせしよう」
「きっと自分にとって良い道を歩ませてくれるはず」
と、牧師になることを決めました。
・牧師さん足りていないんですね…
社会に出てからでも大学 に入り直したりすれば
牧師さんとかになれたりするんでしょうか。なるの難しいかな
社会に出てから牧師になる方、多いですよ。
ルーテル教会の話しかできませんが、
ルーテル教会であれば、三鷹のルーテル神学校
というところに4年通えば牧師になれます。
神学校の入学には、
大卒以上、洗礼を受けて、
ルーテル教会に3年以上通って、
牧師の推薦を受けると、入学試験が受けられます。
ただ、「どうして今の職でなく牧師を選んだのか」
は在学中に何度も確認されました。
牧師は給料も低いし、何か熱い思いがないと
続けていけない、職人に近い仕事だからかなと
最近は思います。
その思いがあれば、誰だって大歓迎です!
・好きな天使は誰ですか?とか
聞いてもいいんでしょうか?
ルーテル教会では
あまり天使は取り上げませんが
(カトリックでは結構取り上げます)
個人的にはマリアに受胎告知をした
天使ガブリエルが好きです。
子供の頃、教会の劇でその役をやったというのも
思い出深いですね。
・家に聖書の宗教勧誘くるアレはカルト?
ほぼカルトか新興宗教ですね。
まっとうなキリスト教会は信徒に
見知らぬ人の家に突撃訪問させるような
ことは絶対にしません
そういう善行をすることが
神の救いに繋がる、とカルトは言いますが
そもそもその行為が
相手にとって「迷惑」だと感じられてしまうなら
「善」ではありませんよね。
相手が聖書の言葉を必要とする時に
いつでも与えられるように
教会はいつでも門を開いていますが
無理矢理にそこに引きずり込もうとすることは
絶対にしません。
・駅前で冊子配りつつキリストは○○をなされた~と
音声 を流してる人たちもカルトですかね…..?
あれはだいたい
「エホバの証人/ものみの塔」なので
キリスト教の皮を被ったカルトですね。
彼らは独自に訳した(内容を改変した)
「新世界訳」と呼ばれる聖書を
使っていることや
世間で批判されている制限などを隠して
良さげな(自宗教を賞賛する)内容だけ
まとめた冊子を配ってるんで
冊子の中身は一見無害そうな内容になっています。
彼らのホームページを見ると
「イエスは神ではない」などと
ちゃんとしたキリスト教会が共通して
信じている内容を平気でぶっちぎってくるので
そもそもキリスト教として認められていません。
・同じプロテスタントでも日本基督教団とか日本長老教会とか日本福音ルーテル教会とか
法人が分かれてるんですが、横のつながりとかはあるんですか?
教派名をよくご存知ですね!
横の繋がりは組織運営レベルではありません。
でも一緒に合同礼拝をしたり、
修養会という名の泊りがけ宴会兼神学論争会とか、
教派を超えて協議会を作ったりする
程度の交流がある地域も存在します。
どこの教会も牧師が足りてないので、
他の教派の牧師を互いに呼びあって
礼拝を出来るような協力システムがあれば
もっと教会も安定するのになと思いますが
教派が違うということは
考え方(大事にしている教義)が
違うということなので
なかなか互いにそこまで踏み込む、
というのは難しい現状があります。
あと、組織の運営(給与体系)なども
ぜんぜん違うので、
そこもハードルがありますね
・知り合いにキリスト教の方がいるのですが、
コレだけは 知っておいた方がよい(これだけはNGとか) ことってありますか?
もしあれば教えて欲しいです!
お知り合いの方への配慮、素晴らしいです。
基本的には特にNGということはないですが、
当たり前の事として、
キリスト教と新興宗教やカルトを
同じものと捉えてほしくないなあ、と
クリスチャンとしては思います。
でもそれは、わからないから教えて!って
誠実に伝えれば大丈夫なので、
何事においても
一人ひとり大事にしているものがあるよね、と
いう気持ちで関われば
大抵のことは大丈夫だと思います。
また、アルコールやタバコがダメ、
という教派もなくはないですが……
個人的に自分に禁欲を課している人もいます。
これも信仰に限らず確認することでしょうから
そんなに気にしなくても大丈夫だと思います。
・プロテスタントはたくさん教派がありますけれど、
ここはより実践傾向とか、
反対にここは教義の細かさをより重視してる、
みたいな違いはあるのでしょうか。
いい質問をありがとうございます。
プロテスタントの成立過程によって
違うところが出てきたりします。
たとえば聖公会などは
かなりカトリック寄りで、
元々はイングランドの王様が
カトリック教会から離婚を許されず、
それにブチギレてカトリックから離脱して始まった
プロテスタント教会なので
中身は「離婚が可能な」カトリック、
という感じを今でも受け継いでいます。
(今はカトリック教会でも離婚する方法があります)
日本基督教団は日本の歴史の中で
戦時中に一度すべてのキリスト教会が
一つになったことがある教派なので
教派の中にまた色々な派閥があります。
ゆるいところもあれば、
日曜の礼拝で聖書の話をみっちり
1〜2時間するような教会もあります。
同志社大学はこの教派の学校ですが、
教義の勉強はそこそこに、
むしろそれをいかに社会の活動で役立てるか、
という視点でキリスト教を
捉えている授業なども多いですから
社会派の印象が強いかもしれません。
ルーテル教会は、よくも悪くも学問派だと思います。
外への活動というより、
宗教改革者ルターの神学に立って、
教会そのものを捉え直し続けている
イメージが強いです。
制限などは最も自由な、ゆるい雰囲気の教会、
でも聖書はちゃんと学ぶよ、みたいな感じです。
最近はカトリックとちょっと
和解っぽくなってきました。
・アメリカの教徒ではよく
地動説とか進化論が問題になってる感じありますけど、
日本ではどうですか?
地動説はちょっとわかりませんが、
進化論の方はアメリカでも
今はあんまり問題にされなくなってきたと聞きます。
(ちょっと古い情報なので厳密ではないかも……)
日本ではほとんど議論されませんね。
でも教会で信徒さんに聞かれることはあります。
結論から言えば、この地球で起きた事柄を
どういう視点で見るか、という違いであって、
対立するものではないと思います。
科学的に「どうやって/How」
地球は出来たのか、生物が生まれたのか
と問うと、進化論がその答えになります。
でも「なぜ/why」地球はつくられ、
私たちは存在するようになったのか、
そう問うと、存在意義の話になるので、
聖書は「あなたという一人の人間に
尊いこの世の命を与えて、
ただそこで平和に生きてほしい、
そうあなたに願った神様がいたから」
という答えになります。
視点が違うので、そもそも比較にならない、
という話ですね。
どちらも正しい世界の見方だなと思います。
それに、どちらも私たちにとって
必要な見方ではないかなと思うので、
個人的には進化論を否定しません。
(というか中学生くらいのとき
「進化論」めちゃめちゃ楽しく読んでました)
・信じるものがあるとやっぱり違う?無神教だけど、たまに信仰心ある海外の人とかいいなって思う
何かを信じるということは、
自分の生き方の指針を持つ、
ということだと思います。
困ったときや迷ったとき、
自分の判断の根拠や指針になるようなものを
持っていると、
一見八方塞がりのように見えても
その指針が、再び歩みだすために
背中を押してくれると思います。
それを良しと思うか、
依存だ、弱さだと退けるかは
人それぞれかもしれません。
キリスト教の神様を信じることだけでなく
色んなものに重きを置くことができると思いますが
(たとえば金が全て!も一つの信仰だと思います)
聖書の言葉は2000年以上も前に語られたもので
今も読まれていることからも
時間を超えて、人間にとって必要な指針が
たくさん書き残されていると感じています。
「天地は滅びるが、
わたしの言葉は決して滅びない。」
というイエスの言葉もありますから、
何のために滅びないのかを考えさせられます。
あの分厚い聖書のどこか一節には
必ず一人ひとりに必要な指針が
書いてあるんじゃないか──
もしそれに出会えたなら、
不思議と、自然に、神様の言葉は時を超えて
その人にとっての指針に
なっていくのかもしれません。
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他にもコメントで許可を確認できていない質問はたくさんあります(この分量と同じくらい)が、気になる人はブラキャニのほうで見てみてくださいね。