天国なんてどこにもないよ


イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
──マルコによる福音書2:17

イエスが人々に伝えた救いとは「天の国」であったと聖書は語る。
この天の国とは何であったのか。ルカ福音書は「神の国」という表現でこのように記す。
「 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。(ルカ17:21)」
あなたがたの間──人と人との間にあるものとはなにか。それは「関係性」であるといえよう。

人のうちには罪がある。
だれしも、すべての人と平和に、争いなく、傷つけあうことなく過ごすことなどできない。
それは神様の心から離れたありさまであって、この罪が私たちの人と人との関わりを打ち壊してしまう原因なのだと聖書は繰り返し語る。
そして何より大きな罪とは、そのような罪を抱え、誰でも神の前に間違いを犯して人と人との関係性を台無しにしてしまうような心を持っているということを、認めないということだ。自分は正しい、自分はいい人なのだと自認をする傍らで、誰かを差別し、自ら人と人との関係性を分断していくような、そんな人を、私たちも見たことがあるのではないか。自分の中にさえ、そのような部分があると思う人もいるのではないか。

イエスが生きていた当時、聖書に記された律法を守るという正しさこそが正義であった。律法に文字通り従って生きるということが、正しさの基準だったし、それが神様の救いに直結していると考えられていた。
だからイエスが神の子、救い主であるキリストとして来られた時、そのような正しさに生きていると自認していた律法学者の中には「きっと自分は神様の救いにふさわしい正しい人間だと認めてもらえる」と思って近づいてくる人もいたし、逆に、その正しさに照らしてみれば全く神様に正しくない、罪びとと呼ばれる人々とイエスが関わっていることに、反感を持つ人々もたくさんいたのだ。

しかしだからこそ、イエスが示そうとした天の国とは──神様に救われた人々の関わりあいとはどのようなものかを、はっきりと述べていく。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

自分の努力によって自分を救おうとする人に、神など必要ないではないか、とイエスは言う。その通りだ。神の救いのため、と言いながら、律法学者たちを始めとした人々は自分で自分を救おうとしていた。自分の力と努力と時間とによって自分を正しさと救いに定めようとし、同じようにできない人々を救いにふさわしくない罪人としていた。それは、彼ら自身が神となって、自分を救い、誰かを救わないとさばいていたということだ。イエスはそれを見抜いていた。

天の国、神様が望まれている人と人との関係性は、私たちの誰一人として正しい存在ではない、と自認し、また相手もそうであることを知ることから始まっていく。
相手も自分もそうなのだから、間違うことも当然なのだ。傷つけあうことも当然なのだ。だから、赦しあうことを互いに教えられる。そんな関わりなのだ。

赦されるのなら相手に配慮はいらない、ありのままであって、相手を傷つけてもよい──ではない。
神様の心に正しい生き方などできないと知っている人は、「自分は誰かを傷つけていないか」、「自分が間違っているかもしれない」と常に自分自身を省みることへと促されるものなのだ。そうやって、ゆるされ、受け止められ、悔い改め続けていく。その始まりにあるのが、イエス・キリストの十字架と言う名の、永遠にして無条件の赦しであるのだと、イエスはその身をもって示されたのだ。

キリストの赦しなしには立っていけない。それを深く自覚し、感謝をもって謙虚に生きていく。
そんな罪びとの集まりこそが、神様が望んでいる天の国の実態だったのだ。

天国は──私たちがイメージするような、清らかで、争いも暴言も差別も悲しみもないような、そんな美しい場所ではないのだ。
この暴力と差別と死と悲しみがはびこる人の世のただなかに、イエスは同じ人間として立ってくださった。
それは、誰の目から見ても神の救いから最も遠いと思われるこの世のただなかに、それでも天の国という救いをすべての人に来たらせようとする、命の全てを賭けたチャレンジであったのだ。

この世のどこを見ても救いなどないように見える。私たちがイメージしている天国なんて、どこにも存在しない。
しかしそれでも、イエスが命を懸けて教えられた天の国という名の関係性をわたしたちが心に刻んで生きていくとき、わたしたちと、関わりあう誰かとの間に、イエス・キリストはきっと立ってくれる。「神の国はあなたがたの間にある」。そう言ってくださるイエスがいる。それを分かち合える時、私たちの天国は、確かにここにある。