イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。──マルコによる福音書1:41-42
イエスは福音書の中でたくさんの病気を癒す奇跡を起こしています。
その中には、その場にいなくても、ただ一言イエスが言葉を発しただけで病気が癒されたという話もあります。
今日の箇所もその一つで、重い皮膚病にかかり、ユダヤ社会から遠ざけられていた人でした。
当時そのような人々は汚れている、と表現され、もしその人に触れたら、触れた人も汚れてしまって、一週間は他の人と関わることができなくなると聖書の律法に定められていました。
おそらく初めは、伝染病を広げないための律法として定められたものだと思いますが、いつしかその律法は、病にかかった人を差別し、蔑ろにし、遠ざけてもよいという意識につなげられていったのです。
この話、つい数年前までは私たちの現実にも重なる話ではないでしょうか。
ソーシャルディスタンスが叫ばれ、感染予防のために距離を取らなければならない、コロナ禍初期では、コロナにかかった人を強く非難するような風潮もありました。
でも、一番苦しかったのは誰かと言うと、そうやって遠ざけられ、悪く言われ、差別されていた人々ではなかったかと思います。
イエスはきっと、この重い皮膚病にかかった人に触れることなく、ただ言葉をかけるだけで、癒すこともできたでしょう。
しかしイエスは癒しの言葉をかけるだけでなく、「手を差し伸べてその人に触れ」て、癒されたということが大事なところなのです。
神学校での祈りの授業の時、誰かのために祈るとき、その人の肩や手に触れながら祈ってみよう、という体験をしました。
自分が祈られる番になったとき、誰かが自分のことを思いやってくれている、祈ってくれているという嬉しさだけでなく、触れている部分がじんわりあたたかくなって、余計に心にしみる祈りの時となりました。
触れる、ということは、私たちの心にも大きな癒しを与えるものです。
コロナ禍の時、私たちの誰もが「触れる事」を強く禁じられたことがあったかもしれません。
しかしだからこそ、誰かに触れられるということの特別さを、いっそう感じるようになったという人も多いのではないでしょうか。
キリストもまた、重い皮膚病を患ったその人が、ただ病の癒しだけを求めたわけではないことを見抜いておられたからこそ、その手を差し伸べられた方でした。
私たちも、誰かのことを思う時、誰かをねぎらう時、誰かに慈しみをもって関わるとき、「触れる」ということが持つ癒しの力を、忘れないでいたい、と思うのです。