あなたを自由にする愛を求めて


イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
──ヨハネによる福音書8:31-32

平安時代、希代の美男子と言われた藤原業平という人がいますが、その孫である藤原敦忠という人が歌った歌に、このようなものがあります。
「逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり」

現代語訳をすると、「あなたと出逢ってしまったあとの、今のわたしの心に比べれば、出会う前のわたしの悩みなんて、なにも考えていないのと同じだったなぁ」という意味の歌です。
つまり、恋が成就する前よりも、恋が成就した後の方が、もっと相手のことを考えて悩ましくなることが多くなってしまった、ということを歌っているのです。
もしかしたら私たちも、時にはこのような熱い恋心を抱えることがあるかもしれません。
そして、そのように相手のために悩むことさえ愛しい時間に思えるのが、恋、というものだと思います。

キリスト教を信じるということ──信仰も、これに通ずるものがあります。
かつてカトリック教会で修道士やシスターになるためには独身でなければなりませんでしたが、それは「イエス・キリストと生涯を共にする」ことを誓う必要があったからです。
宗教改革者のマルティン・ルターも、著書『キリスト者の自由』のなかでこのように言います。
「信仰は魂を導いて、恵みにみちた、自由な、祝福された神のことばに似たものとするだけでなく、花婿とその花嫁のように、魂をキリストに結びつけます。この結婚によって、(パウロもエペソ5・31に言っているように)、キリストと魂が一体となります。」
つまり、彼は深い信仰を表す言葉として「キリストとの結婚」ということを言うのです。

恋にしても信仰にしても、誰かと共に生きる、ということは難しいことです。
何故なら自分と違う誰かと共に生きるということは、自分とは違う考えや価値観を受け入れる覚悟が必要となるからです。
ある時、大学生くらいのクリスチャンから、相談を受けました。
「聖書が勧めている生き方が理想であることは理解できるけれども、自分はどうしてもそのように生きれないということが苦しい」という悩みを抱えていました。
その時、どう答えていいかすごく迷ったことを覚えています。

でも今思えば、これを恋人関係や夫婦関係に見立てて捉えれば答えやすかったな、と思うのです。
というのは、もしパートナーが「こうしてほしい」と勧めてきたことに対して、私たちがそれに応えられない、ということがあったとしても、それに対して怒ったり、罰したり、強制してくるような関係性が、果たして本当の愛に満ちた振る舞いであるだろうか、ということです。

ましてや人と人との理想的な関わり方を教えるイエス・キリストがパートナーであるのなら、私たちにそのような仕打ちをなさるはずがありません。
聖書の教えは、私たちをがんじがらめに縛るような正しさではないからです。
私たち自身も、関わる相手をも尊重し、自由にする──そういう愛に満ちた関わりについて教えているからです。

古今東西、恋は私たちを迷わせたり、悩ませたりするものかもしれません。しかしそうして迷い、悩む中で、相手をもっとよく知り、相手との関係性を深く考えるきっかけになるのなら、それは決して悪いことではありません。
そして、そこに生まれる人間関係の指針において、イエス・キリストと私たちとの関係、その信仰を基準とするとき、きっとそれは、相手のために悩むことさえもうれしく感じる愛へとなっていくことだろうと思います。

もしわたしたちが、誰かとの関係に悩むときには、聖書の言葉、イエス・キリストが教える人間関係の在り方を、思い起こしてみたいと思うのです。
その言葉は、あなたを本当に愛してくれる相手を見つけるために、そしてその人と深い関係を築いていくために、きっと役に立つはずです。