イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
──ルカによる福音書7:12-13
寒暖の差が激しくて、最近私も体調を崩しました。
具合が悪くて家で寝ていると、家族はうつらないように私を一人にしてくれるのですが、飼っている猫だけは心配そうにぴったりと寄り添ってくるのです。
そのたびに思い出すのは、アメリカ・ロードアイランド州のホスピスにいた、オスカーという名前の猫の話です。
その猫、オスカーがいる病院はホスピスですから、余命宣告を受けた末期患者の人々が入院をしています。
オスカーは普段、気ままに病院内をうろうろし、あまり人になつかない猫であるそうです。しかし、決まって患者がなくなる数時間前になると、必ずオスカーはその人のベッドに飛び乗り、じっと添い寝をして離れないのだそうです。
このようなオスカーの姿は、「死をかぎつける猫」というような不吉な感じがするかもしれません。しかし、患者の家族や友人たちはむしろ患者の最後にオスカーが寄り添ってくれることに感謝をするのです。
それほど、死と言う別れの中で、誰かがそこに寄り添い、立ち会ってくれるという体験は大きなものなのだと思います。
私の尊敬する牧師の一人に、関野和寛牧師と言う人がいます。
この人はルーテル教会の牧師でしたが、コロナ禍の真っただ中に、単身アメリカにわたり、病院のチャプレンとして働いている牧師でもあります。
この関野牧師が当時のアメリカでのコロナ患者を看取るという経験を本にしています。
そのタイトルは『ひとりで死なせはしない』。
そこには、新型コロナに感染したがゆえに、社会から、家族から切り離され、そしてこの世からも切り離されていく人々にどのように寄り添うのかということを、切実な形で書き残してくれています。
目の前の人をこれ以上治療もできないし、死にたいくらいの苦しさを取り除くこともできない。牧師なのに、聖書の一節さえ伝えられない。
でも、ただそこで黙って一緒の時間を過ごすということが、その患者の命と心を、この世につなぎとめる力になるということを伝えた体験記になっています。
今日お読みした聖書の箇所の中でも、イエスもまた、息子を亡くした母親に出会ったとき、「憐れに思い、『もう泣かなくともよい』」と声をかけていきます。
そして、死んだ息子をおさめたお棺に手を触れて、息子を生き返らせるという奇跡を起こしていくのです。
この物語が教えているのは、私たちにとって死の別れ、苦しみがどれほど大きいものなのかを神様が知ってくださり、私たちの心に寄り添ってくださる、ということです。
そして神様は、出来るならばその苦しみを少しでも和らげ、取り除こうと願ってくださるお方だということが表されている物語なのです。
私たちも、オスカーのように、またイエス・キリストのように、悲しさや苦しい気持ちを抱える人がいる時には、そこに寄り添える人でありたいと思います。
悲しみも苦しみも、その中にある人と一緒に留まるだけでも、その人にとって大きな慰めになるということを、覚えておきたいと思うのです。