わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
──ヨハネの手紙一 4:16
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CMで聞いた好きなアーティストの新曲がEPでリリースされていたので、5分そこそこ(ピアノアレンジ含め2曲)をリピートしまくって出勤にこぎつけた。
本当は休みの日だったのに緊急で出勤しなければならない事が一番心に堪える。
でも、そういうつらい気持ちを抱えているような時には、たった一曲の音楽、たった一言の慈愛に満ちた言葉が、その心を慰め、支えてくれるということもあるのだよなと思う。
新興宗教の中でよく行われるのが「俗世とのつながりを断つ」という掟だ。
でもそれは、何が正しくて何が間違っているのかを他者が存在する社会の中で相対的な視点を持って判断する、ということを阻害させるためだ。囲い込み、目を隠し、耳をふさがせる。洗脳の言葉だけが絶対正義のように響くようにするためだ。
人は、受けたものからしか与えることは出来ない。受けたものからしか判断できない。
神の愛を知ることによって、私たちは神の愛に生きることができる、と聖書は語る。逆に言えば、神の愛を知らないなら、神の愛には生きられない。
人の打算や利益のために、「神の愛」と書かれただけの薄汚い布でくるまれた悪意が、あらゆる場所でやりとりされている。
「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする(マルコ12:40)」人々は「人一倍厳しい裁きを受けることになる。」とイエスは言われる。その言葉に委ねたい。
神の愛というものは、奪わず、怒らず、排除しない。与え、叱り、受け止めるものだ。
あらゆるものが私たちの意識をひっぱりだこにし、神様というものから引きはがしていくこの世のありさまの中にあって、なお神様は私たちから、人が作りだした世の楽しみを奪うことはない。
むしろそれを通してすら、神様に立ち返る道を示してくれる。神様の慰めと励ましを与えてくれる。あらゆるものの中に働いて、自ら神様の働きを見出すようにと呼び掛け続けているのだと思う。
たった一曲が心を支え、たった一言が心を救う。私たちの努力や技術がそれを成し遂げるのではない。
私たちをありのままに生かしながら、み手の働きとして用いてくださる神様がそこにいる。
そのことを私たちが心に留める時、きっと私たちの歩みも、かかわりも、その神様の働きを阻害しないようにという心から、整えられていくことだろう。
きっとそれは、この世の私たちを通して示される神様の愛になる。