そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。
──ルカによる福音書15:9-10
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娘が最近、かくれんぼにハマっています。基本的には自分が隠れる側で、カーテンの後ろや帽子掛けの後ろのような、バレバレの場所に隠れています。
見つけられないふりをして「どこかな~?」とウロウロしていると、「ここだよ~」と隠れながら小さな声で返してくるのですが、見つけたときにはいつも笑顔で「もう一回!」とせがんできます。
その姿を見ると、誰かに見つけてもらえる、ということの喜びを純粋に楽しんでいるのだなと思うのです。
ルカ福音書には「悔い改め」についての三つのたとえ話が語られています。
私たちが自分の罪を見つめ、悔い改めることを神様はどれほど望んでおられるのか、そして悔い改めた私たちに対してどのように思っておられるのかが語られていくたとえになっています。
そのうちの一つ、「無くした銀貨」についてのたとえの中で、銀貨をなくした女性は家じゅうを探し回ります。そして、その銀貨を見つけ出した女性は「友達や近所の女たちを呼び集め」るほどに喜んでいるのです。
私たちが誰かに喜びを共有したいと思う時とは、いったいどういう時でしょうか。
それはきっと、自分にとってその喜びがとても大きい時に、そのような気持ちになるのだと思います。
これは悔い改めのたとえ話です。私たちが何かを悔い改める時、それほど大きな喜びをもって神様は私たちを見てくださっているというのです。
悔い改めという言葉は、聖書の原典であるギリシャ語では「メタノイア」という言葉です。このギリシャ語は、元々「方向を変える」という意味の言葉と言われています。
ですから神様が望んでおられる悔い改めにおいて大事なことは、ただ反省をする、ということだけではありません。
「方向を変える」こと──神様が喜ばれる正しい道とはどのようなことだろうかと考え、その道を進もうとする、その心の方向が大事なのだと、聖書は教えるのです。
私たちの目の前にある世界は、正しいことをすれば褒められ受け入れられ、間違ったことをすれば怒られ、嫌われる。そう感じている人も多いでしょう。
しかし今日読んだ悔い改めの物語が語っているのは、神様はそのようなお方ではない、ということです。
私たちが良いことをするから神様は私たちの味方でいる、悪いことをすれば見捨てる、神様はそういうお方ではありません。なぜならこのたとえ話の中で、わたしたちのたとえである無くされた銀貨は、自ら何もしていないからです。
悔い改めたくても悔い改めきれないわたしたちがいる。
何が正しい振る舞いなのかわかっていても、自分ではそのようになかなか改善することのできない私たちがいるかもしれません。周りの大人から叱られ続け、良い人間になれない自分はダメだと、そう思っている人もいるかもしれません。
しかし神様だけは、あなたの心を良くわかっておられます。悔い改めたくても悔い改められないあなたの弱さをよくわかっています。
だからまず、神様の方からあなたを見つけ出してくださるのです。
あなたがどれだけ正しく生きれなくても、神様にとってあなたの価値は揺らぐことがないのです。
あなたがどんな人間でも、あなたのことを探し出して、見つけたら喜びにあふれるほどに、あなたのことを大事に思ってくださっている神様がいる。
そのような神様であることを知るからこそ、私たちは間違ったことを繰り返してしまうような自分でも、それでも次こそは正しく生きようという心を持ち続ける事ができるようになるのです。
あなたのことを、神様はいつも探しておられます。だから私たちも、いつも悔い改めの心を持って過ごしたいと思うのです。