わたしの魂よ、主をたたえよ。 主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
──詩編 103:2
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私たちが神に祈るときというのは、いつだって苦しい時だ。
なぜこんな苦しみに留め置かれなければならないのかと叫び、この苦しみをどうか過ぎ去らせてくれと願う。そういう祈りはこの世に溢れている。
イエス・キリストの前にもそういう人が多くいた。
様々な病に冒され、社会や家族から遠く引き離され、神の罰を受けた罪深い人だと差別されていた人々がいた。
彼らこそイエスの救いを最も必要としていた人々であったし、彼らほどイエスによる癒やしによって救われた人々はいなかっただろう。
ルカ福音書には重い皮膚病にかかった十人をイエスが癒やす話がある(ルカ17:11以下)。
この話の中で、人々は初め、イエスに癒やしてもらえるように必死に叫んでいる。
するとイエスは「祭司に体を見せに行くように」と指示をする。
イエスは決して彼らの眼の前で癒やしの奇跡を行ったのではないし、イエス自身も癒やしを明言しない。彼らは祭司に体を見せに行く途中で病を癒やされていくけれど、イエスが癒やしてくださったと感謝を述べるために引き返してきた人は十人のうち一人だけだった、という話だ。
私たちは祈り願う。困難の中にあるとき、苦しさを抱えているとき、悲しみが取り除けないときに。
でも、それが過ぎ去ったとき、癒され、乗り越えることができたとき、私たちは祈ったことを忘れてしまうことがあるのではないか。
祈ったこと以外のこと──自分が耐え抜いたという努力や、乗り越えるために数々の試行錯誤をしたことなど──にばかり目を向けて、きっとあれがよかったのだと、自分の努力が実を結んだのだと思いがちではないか。
イエスに癒された10人も、明言されないイエスの奇跡に支えられ、病とそれに伴う社会からの断絶から救われていった。
けれども彼らが回復させられた時、彼らが救われたのはイエスのおかげであったことに心を寄せることはなかった。
それはきっと、忙しい日々の中でなんとか様々な困難を乗り越えていかなければならない今の私たちにとってはよくある態度なのかもしれない。
私たちの気付かないところ、私たちが「小さなこと」として処理してしまったものが、きっとある。
たった一言の言葉や励まし、シンプルなアドバイスだったかもしれない、しかそれがなければもしかしたら乗り越えられなかった、そんな「小さなこと」一つ一つに感謝をすることは大事なことだと、10人の重い皮膚病を癒された10人とイエスの物語は教えてくれる。
困難の渦中にあるとき、どれが自分にとっての助けになるかわからないまま、感謝をするのは難しいことだ。
でも、癒された10人のうちたった一人は──病と言う苦難を乗り越えた時、振り返って、その小さな助けを差し出してくれたイエスのところに立ち戻ったその人は、イエスにこのように言われるのだ。
「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。(ルカ17:19)」
イエスは困難を乗り越える時の私たちの努力を決して無下にはなさらない。感謝しに帰ってこなかった9人を追いかけていって礼を言わせるようなことはなさらない。
でも、振り返ってイエスに目を向ける人には、「その信仰を通してあなたには神様がついているよ、これからもきっと大丈夫だよ」と、力づけ、送り出してくれるお方なのだ。
詩編の祈り手は力強く呼びかけている。
「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない(詩103:2)」と。
私たちの気付かないところ、見えないところで、きっと神様も、あなたのために働いている。そっと支え、導き、時には思いもかけない出会いと奇跡に出会わせてくれる。
そして私たちが新たな苦難に苛まれるときにも乗り越えられるようにと、励ましの言葉をかけようとしてくださっているのだ。
私たちが神様の方を向かなくても、神様の心が、私たちに向けられていることを、忘れないようにしたい。そのような神様に向かって祈れることの幸いを、聖書は私たちに教えてくれているのだ。