あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
──ルカによる福音書 15:4
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日本を代表するコピーライターの一人・糸井重里氏の、『ボールのようなことば』という本に、こういう言葉があります。
『「人生は、別れと出会いの連続だ」と言いますけれど、「人生はごめんとありがとうの物語」でもあります。』
この言葉を読んだとき、ふっと頭によぎったのが、今日の聖書の箇所でした。
ルカ福音書のたとえ話の一つに、100匹の羊のうち一匹だけが迷子になってしまう、という話があります。
このたとえ話の中では、迷子になった一匹の羊とは、私たちひとりひとりのことです。
そしてそのような私たち一人一人を、見捨ててはならない、かけがえのない存在として探しに来てくれるほど、あなたのことを大切に思ってくれている神様がいる──そのようにイエス・キリストは語られるのです。
でも私たちが、そうやって迷い出た羊の立場に置かれた側になったとしたら。
私たちはきっと、すごく申し訳ない気持ちになるのではないでしょうか。
私たちの毎日の生活の中でも、そういうことがあるかもしれません。
自分が周りに迷惑をかけてしまっている。周りから気を遣われて、でも自分では何のお返しもできなくて、申し訳なさだけが募っていく。
そんな気持ちを抱えることもあるでしょう。
でも、イエス様はきっと、このたとえ話を語るときに、そのような私たちの思いでさえも分かったうえで、話されたのだと思います。
申し訳ないと思う私たちがいてよいのです。
糸井重里氏が言うように、私たちの人生は、ごめんとありがとうで出来ているからです。
申し訳ないという気持ちは「ありがとう」という言葉に変えることもできるでしょう。
そして、ごめんね、いいよとお互いを赦しあうことも、神様が私たちに望んでいる姿であるからです。
これは迷い出た私たち一人一人に関わってくださる神様の話、というだけでは終わりません。
誰か一人が迷い出て、周りに迷惑をかけてしまうことがある。あなたがその立場になるかもしれない。
だからこそ、もしそうなったときに、「自分は周りからどのような関わりを受けたいだろうか?」と、考えさせられる たとえ話でもあるのだと思います。
誰だって、失敗した時には反省し、ゆるしてほしいと願うものです。
迷惑をかけてしまったとしても、そこで「いいよ、大丈夫だよ」と言ってもらえれば、再び迎え入れてもらえれば、もう二度とするまいと、悔い改めへと向かっていけるものだと思います。
そのように私たちが願うのであれば、自分が周りの誰かに迷惑をかけられた時にも、同じように周りの人々に接したいと思うのです。
「ごめんね」「ありがとう」の言葉を、いつも関わる人々に向けてたくさん掛け合える毎日になるように、今日の聖書の言葉を心に留めて過ごしたいものです。